引用

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2009年04月12日
内子町大江健三郎の故郷訪問、回想記+北烏山に詩人・北村太郎の墓
俳句 文学 詩

 さくらの夜 一生(ひとよ)ながしと 倦(うん)じゐる     (森 澄雄)

 満開の夜桜を眺めたとき、普通ならひとは幻惑的なムードに浸ったり、豪奢な気分に酔ったりするでしょう。ところがこの作者は、一生は長いなあとうんざりする、と呟きます。別に拗ねた性格ではありません(笑)。そうじゃなくて満開の桜があふれんばかりの生命感の充実を示すのに対して、圧倒され、いわば桜の生のエネルギーに眩暈を感じたがために、倦怠の気分になる、というのでしょう。うん、なんだかよくわかります。わが家の界隈の桜は、今夜はもうかなり散ってしまい、葉を茂らせはじめました。春は本番です。

 大江健三郎さんの小説『憂い顔の童子』を読了します。これで『取り替え子(チェンジリング)』、本書、『さようなら、私の本よ!』と、いわゆる「レイターワーク」三部作をまとめて読みました。しかしどれも長いなあ(笑)。普通の小説なら長篇を10冊ほど読んだな、という満腹感があります。本書は、文庫本の解説のリービ英雄さんも言うように、副主人公?のように、ローズさんという、中年アメリカ人でありながら大江研究(小説では「長江」ですが)を続けていて「四国の森」の一軒家で長江コギトと一緒に生活を始める女性存在を置くことで、当該の物語と、これまでの大江作品との照応が自在になされ、大江文学の「読みなおし」が実践される、という仕掛けを持っています。つねに「小説の方法」に自覚的な作家らしいなあ。

 しかし本書を読みながらずっと気になっていたのは、「真木町」が内子町であるのは描かれる地誌の記述からも納得なのですが、この一軒家のある「十畳敷の岩鼻」というのはどのあたりだろう、とか、「母親の墓地」とは大瀬村のどのあたりだろう、とかいうことでした。つまり前回も書いたように30年前と、もう一回、これはBindexのDiaryを確かめると2003年の8月8日のことでしたから、もう五年半前ですが、大江文学のトポスである愛媛県内子町の大瀬村をフィールドワークした体験を持つために、つい実際の地理空間に還元させて、虚構世界の舞台のモデルを探したくなるのですね。ま、作者自身が作中でローズさんに似たような役割を与えているわけですが(笑)。そしてこのことは、たんなるゴシップ的な関心というようなものではないはずです。大江文学では例の「村=国家=小宇宙」の思考モデルを引き合いに出すまでもなく、「四国の谷間の村」が特殊な村落なのではなく神話的想像力に訴えて、物語を普遍性を持った場所での出来事にしてしまいます。だからこそ?、実際のその地理を知ることは、神話作用の生成原理を体感できることにもなるわけです。(やや屁理屈めいていますが(笑)。)

 大江作品でよく登場する「三島神社」は、これは行ったらすぐわかりました。長い石段の参道も、大銀杏の木も確かに境内にありました。五年半前の探索で大きな収穫だったのは、大江家からは川を渡ってしばらく歩いたところにある大瀬中学校でしたね。広いグラウンドの向こうに建設されたのは、コンクリートの打ちっぱなしスタイルのポストモダンふうの校舎。これは大江さんと親交のある建築家・原広司さんの設計になるものです。まあ山の中にこんな中学校があること自体がドラマですが、なんとなく無断で(笑)夏休みの校舎を見学させていただきながら、ここで学んだ三年間はきっとステキな記憶となるだろうな、という思いがありました。そして特徴的だったのが、円筒形の音楽室です。ここは、『燃えあがる緑の木』三部作のなかでは「教団」の集会所として登場するのでしたが、そうそう、『憂い顔の童子』でも地元の中学生らの悪だくみで、長江やローズさんやアカリらがおびき出されて大音響の攻勢を受ける、という場面で「使われて」いましたね。ああ、あそこだ、とカタルシスです(笑)。

 それから中学の前の小高い丘状のところを帰りがけになんとなく登ってみます。するとここが庚申山ですね。中腹に小さな祠があって、それが庚申塚?だったかな。大江氏のエッセイを読むと、ご母堂が小遣いをカンパされてこの祠の維持に尽力されたとか。そんな次第で、大瀬村は大江文学の鍵になる場所ですね。車がないと松山市からはちと不便ですが、大江文学の読者には探訪をお薦めします。色んな発見があるでしょう。

 さてわが家からほど近い北烏山には、寺町通りといって、江戸期に古いお寺が集まって出来た一画があります。京王線千歳烏山の駅前から出ている久我山行きのバスの乗れば、すぐです。確かお寺が40軒ほどもあるので、お彼岸のころはかなりの混みようでしょう。界隈はわが家から自転車で10分ほどの距離。ちょうどいい散策コースなので、以前はしばしばペダルを漕いでいきました。しかしこのところ、寺町にはすっかりご無沙汰です。それに病み上がり、まだ三半規管のダメージが残って、左の難聴と軽い立ち眩みが治りません。だから自転車に乗るのもまだ安全とはいえないのかもしれませんが(笑)、金曜の夕方、左右には十分注意して、ゆっくりと界隈を走りました。

 通りをしばらく久我山方面に行くと、右手に緑の生垣があって、インド風の本堂の建物が特徴的なお寺が見えてきます。ここが妙祐寺。あたりはまだ明るい夕方です。自転車を停めようとすると、おや、門が閉まっていますね。五時を回ったからでしょうか。そういえば辺りのお寺もみんな閉門です。(後から調べると、なんでも近年、ここらのお寺には経済不況の影響か、お賽銭泥棒が横行するので、自衛の手段に出ているそうです。きっとそのせいでしょう。昔はこんなに早く門が閉まることはなかった。)そんなわけで、久しぶりのお墓参りは実現できなかったのですが、ここ妙祐寺の墓所には、詩人の北村太郎さんが眠っておられます。大正11年のお生まれでしたが、平成4年に亡くなりました。享年70でしたか。北村さんは本名が松村文雄。よって墓石には「松村家之墓」という文字が刻まれていますね。

 北村太郎さんとは、当時は当方もまだ30歳ほどと若かったですが(笑)「無限アカデミー」というセミナーで公開対話をしていただき、それ以来、心やすい気持ちでいました。しかし実際にお目にかかったのはその後も数えるほど。当時は60代でしたがジーンズのよくお似合いの若々しいおじいちゃん、というお人柄でしたね。まあ当時の北村さんの私生活は、先年にねじめ正一さんが小説『荒地の恋』に書かれたような、ドラマティックな恋愛を経験されておられたわけでしたが。そう、北村さんの詩には、最初の詩集から「墓地の人」という題名の詩があるように、お墓や死者のことをテーマにしたものが多かったのですね。そんなご自身が烏山の「墓地の人」となられて、もう17年がたつのですね、早いものだなあ。

 僕がここ仙川に越してきたのが13年前。その数年後、なんの拍子だったか、北村さんのお墓がここにあるのを知って、やはり自転車で訪ねたのです。墓所はそう広くはないものの、いったいどれがそれかわからず、ご年輩の大黒さん(住職のおかみさん)に尋ねたところ、わざわざ案内をしてくださいました。「今でもね、若い女性のファンのかたがかなりお参りにみえてますよ」とは、大黒さんからうかがった話。毎年秋には横浜を中心に「北村太郎の会」がずっと続けて開催されてますから、太郎人気というのは根強いのでしょう。ただし北村さんの詩は、シンプルな文体で綴られているのですが、決して読み解くのはやさしくはない。何年か前に或る授業で北村さんの詩を教材に使ったら、「よくわかんない」という声が洩れていました。それ以来、教材には用いません。うーん、淋しいですがねえ。ただ、ここのお墓の前に、若い女性たちからの香華が絶えないことを願っていましょう。

 おしまいの引用句は、じゃあ北村さんの墓地の詩から、前半の何行かを引きましょう。じつに北村太郎的風景とでもいうべき世界が現前します。

「春はすべての重たい窓に街の影をうつす。
 街に雨はふりやまず、
 われわれの死のやがてくるあたりも煙っている。
 丘のうえの共同墓地。
 墓はわれわれ一人づつの眼の底まで十字架を焼きつけ、
 われわれの快楽を量りつくそうとする。
 雨が墓地と窓のあいだに、
 ゼラニウムの飾られた小さな街をぼかす。」
                                     (北村 太郎  「雨」  『北村太郎詩集』)