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月曜日

久しぶりに行く図書館だった。伊集院静「でく」を借りてきた。閉館少し前の時間で外はもう暗くなっている。この図書館には、前は歩いてきた。そのときは自転車を持っていなかった。歩きだと2時間くらいかかるのではなかっただろうか。数年前だったと思う。また虹の黄昏のラジオを聴いている。ラジオにもいろいろある。それからお寿司を食べた。(うどん)去年のお正月は友達と回転ずしに行った。また行きたい。この人はまた行ってくれるかもしれない。少し前に葉書を送ってくれたから。夜、YouTube伊集院静と調べてみた。

 

 

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土曜日

「あれあれ、いやらし。男のくせに、そんなちぢれ髪に油なんか附けて、鏡を覗き込んで、きゅっと口をひきしめたり、にっこり笑ったり、いやいやをして見たり、馬鹿げたひとり芝居をして、いったいそれは何の稽古のつもりです、どだいあなたは正気ですか、わかっていますよ、あさましい。あたしの田舎の父は、男というものは野良姿のままで、手足の爪の先には泥をつめて、眼脂も拭かず肥桶をかついでお茶屋へ遊びに行くのが自慢だ、それが出来ない男は、みんな茶屋女の男めかけになりたくて行くやつだ、とおっしゃっていたわよ、そんなちぢれ髪を撫でつけて、あなたはそれで茶屋の婆芸者の男めかけにでもなる気なのでしょう、わかっていますよ、けちんぼのあなたの事ですから、なるべくお金を使わず、婆芸者にでも泣きついて男めかけにしてもらって、あわよくば向うからお小遣いをせしめてやろうという、いいえ、わかっていますよ、くやしかったら肥桶をかついでお出掛けなさい、出来ないでしょう、なんだいそんな裏だか表だかわからないような顔をして、鏡をのぞき込んでにっこり笑ったりして、ああ、きたない、そんな事をするひまがあったら鼻毛でも剪んだらどう? 伸びていますよ、くやしかったら肥桶をかついで、」

 

 

平井 照敏(ひらい しょうびん、1931年(昭和6年)3月31日 - 2003年(平成15年)9月13日)は、俳人、フランス文学者。青山学院女子短期大学名誉教授。本名・てるとし。 

嶋岡 晨(しまおか しん、1932年3月8日‐ )は、日本の仏文学者。詩人、評論家、小説家。元立正大学文学部教授。 

 

き 木原孝一 秋谷豊/嵯峨信之/新川和江/川崎洋/岩田宏/木原孝一/毛利忠尚/仲谷昇/岸田今日子/伊藤幸子/柴田忠夫/清水康雄/原崎孝/田村隆一/中川敏/山本健吉/高橋義孝/宗左近/平井照敏/飯島耕一

詩人という不思議な人々 わたしの現代詩人事典 嶋岡晨 - bookface’s diary

 

 

 ぼくの書き方が変わったのは、小説を書いていても、つまりそれまでのやり方で掘っていても疲れるだけということになってきたからです。書くことが自分にとって「経験」にならなくなっていた。作業はできるし、構造物はつくれるけどね。ただ小説を書いているだけでは、小説家をやっている意味がない。新しいやり方を見つける必要があったのです。ぼくの場合はとりあえず準備なしで小説に向かうということだったわけですね。(略)『さようなら、ギャングたち』を書いていて、自分が更新されていくと思ったのは、何を書いても世界のことが説明できる感じがしたわけだからなんですね。べつに世界の成り立ちを説明してやろうなんて思っていなくても、どんな細部を書いてもそれがそのまま世界を説明していることになっている。書くことがぜんぶこの世界の発見だから、常に新しい経験でもあるわけですよね。昨日まで気づかなかったけど、これも世界の一部だねって、書くたびに一つずつ発見していく。(略) でも、だんだんそれが自分のなかでうまく説明していない感じになってきた。ちょうどそのころから、七年かけて『ゴーストバスターズ』を書いたんだけど、これはまさに球を置きにいったような作品だった。それでだんだん小説を書く筋肉が弱くなってきた。だから少し投げられる肩をつくろう、と思ったんですね。(略)九〇年代の途中までは、何を読んでもつまらなかった。それにも困った。ほんとにおもしろいと思えたのは猫田道子ぐらいだったかもしれない。まあ、彼女の作品を小説と呼ぶべきかどうか難しいけど。(略)小説に興味を失っていたのかもしれませんね。読んでも自分のなかでインスパイアされるものがなかった。おもしろいとは思うんだけど、おもしろいと思うことと、自分のなかで衝撃を受けて事件であるということは別問題だから。(略)猫田さんは、あやまった言語の使い方をしている。でも、それは間違いというわけにもいかない。なんていうか、正しい文法を知っていたときの記憶がかすかに記憶の中に残像として残っているという感じ、あるいは三次元の文学空間が歪められて二次元に投影されたような妙な感じ。つまり表現ということ、言葉を発するということの極端なパロディみたいなものになっているわけですね。にもかかわらず、インパクトのある表現として伝わってしまうということがすごいと思った。(略)そういうものを読んでいるうちに、小説は、いかにも小説というかたちのなかでも成り立つけど、生息できる場所は他にもいろいろあって、あそこでも生息できるし、あそこでも生息できるのじゃないかと思うようになった。そこに生息している小説風のもののほうが、いかにも小説というものよりおもしろい。では、自分が書くとき、どうすればいいのか。それで行き着いたのが、自分がそういう小説の辺境にあるようなものを読んだときに得た感覚と近いところに自分がいられるようにすること、それだけを決めて書けばいいかな、ということです。(略) 保坂さんもよくご存知の『ゴダール/映画史』という本があるけれど、これはどんな小説、どんな詩や、理論書よりもぼくにとって衝撃的な本でした。この二十年ぐらいでいちばん驚いた本三冊挙げるとするとかならず入るんです。(略)何がおもしろいかというと、ゴダールの考え方が、簡単に言うと「小説的」だということなんてすね。つまり彼は映画のことをしゃべっているんだけれども、それがぜんぶ小説のことだと思えてくる。では、小説と映画はどこが似ているのかと考えてしまう。その彼の映画論で一番おもしろいところは、要するにぼくたちは日常のコードでものを考えたりしゃべったりするわけで、そのことに気をつけろということなんですね。(略)観客は、スティーブ・マックィーンが困った顔をすると、そうか彼は困っているのかと思う。でも、それは映画ではない、とゴダールは言うわけですね。それは、ハリウッドが作った映画のコードにしたがって画面を観ているだけで、誰も自分の目で映画を観ていない、と。実は、それは小説でも一緒で、読んでいるんだけれども、あるコードにしたがって読んでいるだけじゃないのか。もっと怖いのは、ふつうの小説の書き手も、あるコードにしたがって書いているだけで、ゴダール風に言うと、誰も小説なんか書いていない、ということになってくるんですね。 では何がゴダールの言うような「映画」なのか。あるいは何が「小説」なのか。(略)ぼくは簡単に言うと「そのなかを通過することによって、認識の組み換えが起こるもの」が小説だと思っています。もちろん詩や評論にもそういう要素はあるけれども、詩は永遠の相で何かを一瞬照らせばいいので、読者は変わる必要がない。その一瞬に世界、が見えたと思えさえすれば、それは錯覚でもいい。詩は時間を止めることができればいいんですが、小説はその中で時間の経過があって、そこから出たところで、認識が変わっていないと困る。でもほとんどの小説は、そういうことを読者に要求していないんですね。だからどういう小説がいい小説かというと、それはすごく簡単で、読んでいるときに、立ち止まって考える箇所があれば、それはいい小説ということになると思います。つまり途中でいったん頁を止めて、その小説と別のことをどうしても考えたくなったら、それは間違いなく小説なんです。(略)リアリズムとリアルは違っていて、ゴダールの映画はリアリズムでもなんでもない。ただ、リアルなものを画面に出そうとしている。そして、リアルなものってなかなか映らないんですね。ふつうの映画で、男と女が会話をしていたって、ハリウッドのコードでやっているんだから、リアルでも何でもない。じゃあどうするかっていろいろ考えて、即興撮影したり、当日セリフを渡したり(略)ぜんぶリアルなものを出させるための方策なんですよね。決まった方法がない。だからゴダールのやり方も行き当たりばったりで、ぼくがゴダールを好きなのは、ほとんど失敗しているからなんです。うまくいくわけないんだ、そんなの(笑)。つまりリアルなものを出そうとして、失敗して、リアルなもののかけらがいっぱい残っている。リアルなすごい映画がある、というわけではなくて、そういうもののネガとして、映画の存在の可能性が毎回見える。(略)小説は一面ではとにかくわかりやすくなければならないと思うんです。(略)と同時に、すぐにわかってもらっては困る部分を、何らかのかたちで提出しなければいけないわけです。さっき言った小島信夫さんのように、説明不能な何かですね。(略)ふつう小説は、そこに書かれていることはぜんぶ何かしらの関連があるんだけれど、小島信夫の小説になるとつながりがわからなくなるというか、ないというか(笑)。なんで止まるかというと、つながりがわからないからです。妙なところでつながっているんだけど、その関係がよくわからない。そこが気持ち悪い。(略) 意味のない文学的修辞を小説は使うべきではない。なぜなら、それは一見、文学の味方に見えて、実は敵だからです。小説あるいは文学と呼ばれるものを厳密に定義することは困難です。しかし、これだけはいえるのではないでしょうか。悪い意味での文学的修辞は、まさに小説の外側にあって、敵対するものとして存在しています。そこに「文学的」な文章がある。そのことと、それが小説であることの間には何の関係もありません。そこに置かれた、一つの文章と、続く別の文章との間に繋がりがない、ゴダールの『映画史』の中の一つ一つの映像のように、それぞれが違ったベクトルを持っている、その中で読者が宙吊りになり、迷ってしまう、それが「小説的」なあり方だと思います。 たとえば、フローベールはそういう小説の源泉のひとつですね。『ボヴァリー夫人』にしても、あれは不倫小説だけれど不倫はこの小説で何の重要性ももっていない。あの小説は何がおもしろいのかといったら、全体で醸し出している違和感です。恋愛小説のパロディであって、描写が非常にクリアに書いてあって、読み終わっても誰にも感情移入できない。しかしいろんなところがバラバラにおもしろい。足していっても引いていっても答えが出ないことこそ、小説のおもしろさなのかもしれない。つまり詩や歌だと、最終的に自分のなかのエモーションが解放される瞬間があるんだけど、フローベールを読むと、最後は気持ち悪くなるだけです(笑)。 漱石にしても、通俗的漱石の作品像とは異なり、彼の作品には奇妙なところがいっぱいあります。(略)『虞美人草』なんて単なる失敗作と考えられがちだけど、よく読んでみると異常な小説なんですね。(略)会話の部分はモダンなのに、地の文にはわざわざ非常に古い美文を使っている。漱石はその前に『坊っちゃん』を書いているわけだから、全篇を近代的な散文でやることもできたはずなのに、あえて古くさい文章を使っている。そして、その部分が妙に浮いていて、読んでいるとすごく変な感じがするわけです。だから、当時すでに、正宗白鳥なんかにわけがわからない小説だと言われていて、結局それ以降漱石はわけがわかるほうに転換してしまったわけだけど、どうもあれは違ったことを言いたかったんじゃないかというふうに見える。いま読むと、すごくおもしろい。何か妙なことをやろうとして失敗して黙っている、そのゴロンとした感じ。そういうのを持ってる作家はおもしろいですね。(略)漱石はあれほどポピュラーな作家なのに、ほんとうのところ、何か言いたかったのって気がするんですよね。つまり、三角関係の話を、あんなに書いているんだから実際に何かあったんだろうと、ふつう下世話には考えますが、実はよくわからない。百年の間、研究者たちがあれほど調べているのに、証拠が出てこない。(略)漱石が、もし経験ではなくて想像によって書き続けていたとしたら、なぜ同じ想像にこだわったのか。そのことによって何を言いたかったのかというと、それもまたよくわからない。(略)詩の言葉は、詩的な無意識の部分から何かに憑依して、というか、丸ごと「詩人」という存在になって、そこからやってくる。ぼくはよく言うんですけど、詩人が書いたものはすべて詩になるけれど、小説家は、小説を書いた結果、事後的に小説家になる。いわば詩的世界観というものがあると思うんです。そして、その世界観に沿って、たとえば吉増剛造さんが書けばぜんぶ詩なんです。ところが、小説的世界観なんてものはないんだと思うんです。どちらも日常の言葉とは違うベクトルで出来ているけれど、「小説性」は、一回一回の現場における認識の仕方だと思うんです。そこにボールが来ないと当たらない。ふつうにエッセイを書いたって、日常のコードに合わせて言いてるからそこには「小説性」がない。ある空間のなかに入ってくるとボールが当たる。それを小説と呼んでいるんだよね。だから逆に言うと、小説性を発揮できる場所を小説と呼んでいるだけなのかもしれないね。 

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ゴダール

現代詩手帖特集版 高橋源一郎 - 本と奇妙な煙