| 2017 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 6月14日 | "小飼弾による水村美苗 | ||||||
| 『日本語が滅びるとき』書評" | http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html | jcode.pl | 日本語の文字符号化方式であるShift_JIS、EUC-JP、ISO-2022-JP(俗にJISもしくはJISコードとも称する)で記述された、日本語符号による文字列の相互変換を行うPerl記述のライブラリ。作者は歌代和正 | ||||
| 歌代和正(1960- | 翻訳家。東京理科大卒)の2006年インタビュー | "http://web-engineer.buyuden.net/interview/utashiro/ | |||||
| " | →ドナルド・クヌースの話(sheet2) | Jcode.pm | 子飼弾が開発した派生版。記述をライブラリ (.pl) からモジュール (.pm) に変更し、相互変換可能な文字符号候補としてUTF-8を追加した | ||||
| "SRA(Software Research Associates)に入社して、UNIXでの | |||||||
| 商用プログラムの開発。1983年くらいから慶応大との共同研究で議事録をとる→斉藤信男、村井純、中村修" | Nick Ing-Simmons から、引き取って開発 | ||||||
| JUNET | WIDEプロジェクト | "東大、東工大、慶応大学とSRA、アスキー、NECといった民間 | |||||
| 企業が集まって立ち上がったもの | |||||||
| Widely Integrated Distributed Environment の略 | |||||||
| 1992年 WIDEプロジェクトのメンバーが、ISPであるIIJを設立。IIJは独自にバックボーンネットワークの構築を開始し、後に日本国内の官公庁・法人向けのインターネット接続環境の普及に多大な貢献を果たした | |||||||
| 1994年 日本初のインターネットエクスチェンジ(IX)であるNSPIXP1を東京都内に開設" | Sjisソフトウェア | 稲葉準が開発した派生版。記述をライブラリ (.pl) からモジュール (.pm) に変更。最新のPerlインタプリタをJPerlとして使うことができる。シフトJISを変換せずそのまま扱うため、UTF8フラグが不要 | |||||
| "IIJ | |||||||
| : インターネットイニシアティブ" | "日本で最初に商用サービスを開始したインターネットサービス | ||||||
| プロバイダ(ISP)で、1992年12月に村井純・吉村伸を始めとするWIDEプロジェクトのメンバーが中心となって設立された。初代会長はアスキー出身の深瀬弘恭" | WIDEプロジェクト | "1997年 NSPIXP3を大阪市にそれぞれ開設 | |||||
| 2003年 NSPIXP2を発展的に解消し、日本初の本格的な分散運用型IXとして『dix-ie』の運用を開始 | |||||||
| 1995年 「三菱電機 スーパーセレクション 坂本龍一 TOUR'95 D&L with 原田大三郎」の武道館ライブに技術協力を行う。その中で、ローリング・ストーンズに続いて世界で2例目で、日本では初の試みとなったインターネットを介した音楽ライブのライブストリーミングを行った" | |||||||
| "SRA | |||||||
| : ソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ" | 日本で最も古い独立系ソフトハウスの一つ。1967年に設立された。1980年にソフトウエア開発環境整備のためUNIXを日本で最初に導入した。リチャード・ストールマンによるGNU宣言(1985)以降、SRAではWingnutなどGNUプロジェクトのソフトウェアをはじめとするオープンソースソフトウェア、フリーソフトウェア導入に早くから着手した | WIDEプロジェクト編『日本でインターネットはどのように創られたのか?: WIDEプロジェクト20年の挑戦の記録』(2009) | |||||
| 「2~3年でエンドユーザーの通信環境は激変する」: IIJ深瀬会長 | http://ascii.jp/elem/000/000/322/322844/ | "JUNET: Japan University | |||||
| NETwork" | "1984-1991に存在した、日本の学術組織を結んだ研究用のコンピュータネットワークで、今日インターネットと呼ばれているネットワークの日本における実質的な起源→石田晴久『コンピュータネットワーク』(1991)、村井純『インターネット』(1995) | ||||||
| 1984.9 村井純が個人的なデータの移動のために無許可で慶應義塾大学と東京工業大学を接続" | |||||||
| L-3 コミュニケーションズ | 1997年にロッキード・マーティン社より、10のノンコア事業を分離する形で設立された。米国と欧州に光ファイバー網を持つ | ロッキード・マーティン社 | アメリカの航空機・宇宙船の開発製造会社(軍需企業)。1995年にロッキード社とマーティン・マリエッタ社が合併して現在のロッキード・マーティン社になった | ||||
| グローバル・クロッシング | 1997年に創設された。米欧と中南米にある通信関連資産と世界中にめぐらされた海底ケーブルを運営する | マーティン・マリエッタ社 | |||||
| IHI | Ishikawajima-Harima Heavy Industries の略で、もとは「石川島播磨重工業」。1960年に旧石川島重工業(1853-)と旧播磨造船所(1907-)が合併して、石川島播磨重工業株式会社となり、1968年には旧呉造船所(1945-)を合併した。名門であるが故に、日本企業の持つ構造的な問題点を抱えている | ロッキード社 | 1913年 アイルランド系のアメリカ人: アラン・ロッキードとマルコム・ロッキード兄弟(Allan and Malcolm Loughead)がAlco Hydro-Aeroplane Companyを創設。 1916年 ジャック・ノースロップがロッキード社に入社。 1926年 社名をLockheed Aircraft Corporationに変更 | ||||
| 6月15日 | ノースロップ社 | "ジャック・ノースロップ(1895-1981)が創業者で、ロッキードから | |||||
| 独立した1927年にノースロップ・エアクラフト(1929年にユナイテッド・エアクラフトに吸収された)を、その後、ドナルド・ダグラスと協同でノースロップをカリフォルニアに設立したが、1937年にダグラスと別れて、/" | → | "ボブ・ウッドワード『大統 | |||||
| 領の陰謀: ニクソンを追いつめた300日』(カール・バーンスタインと共著 | 常盤新平訳 | 1980)、『最後の日々: 続・大統領の陰謀』(常盤新平訳 | 1980)、" | "『ディープスロート: 大統領を葬った男』(伏見威蕃訳 | 2005) | ||
| /工場はダグラス(のちのマクドネル・ダグラス)の所有になった。1939年に設立された第二次ノースロップは1994年まで続き(1972年にはウォーターゲート事件の舞台になり、その後のロッキード事件へと波及)、グラマンと合併して、ノースロップ・グラマンになった。" | |||||||
| 1914年開業 | 旧国鉄東京駅の丸の内側本屋の鉄骨の建造(施工は大林組が担当) | ロッキード事件 | 1976年2月に発覚 | ||||
| 1945年 | 永野治による日本初のターボ・ジェットエンジン開発 | "児玉誉士夫(こだま・よし | |||||
| お)" | |||||||
| 1967年 | 日本国内最大の大型海水淡水化装置建設 | ノースロップ・フライ | 1912-1991 | ||||
| 1997年 | 東京湾アクアライン工事用シールド掘進機納入 | "ウィリアム・A・コーエン『ピーター・ドラッカー: マーケ | |||||
| ターの罪と罰』(松浦由希子 | 2013)" | ||||||
| 1998年 | 明石海峡大橋のケーソンやタワー(主塔)の建設 | 陸・海・空 | "MOT(Management of | ||||
| Technology)" | アメリカ・3Mと花王はMOTに長けた企業といわれる | ||||||
| NTT | "真藤恒(しんとう・ひさし) | ||||||
| →「ドクター合理化」の異名" | "1910-2003 | NTTの初代社長・会長(1985-)。1934年春、九州 | |||||
| 帝国大学工学部造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、ダニエル・ラドウィックと手を組んで、造船では二流企業でしかなかった石川島播磨重工を業界トップに押し上げ、日本の造船業の発展に尽力した。1972年から社長(IHIの)に。建造量で三菱重工業を追い抜くという快挙を達成したが、造船不況の中で、大規模な人員削減を実施し、その責任をとって?辞任。1981年に同社出身の経団連名誉会長・土井敏夫(どこう・としお→「ミスター合理化」の異名)に請われ、旧日本電信電話公社総裁に就任" | 真藤恒『習って覚えて真似して捨てる』(1988)、宮田秀明『アメリカズカップのテクノロジー』(2000)、西村一広 | 矢部洋一『歴史に挑む、風の旅人たち: 伝統のヨットレース、アメリカズカップへの挑戦』(2000)、原田武重『IHIに今も息づくシントーイズム』(2012)、山崎達光 | 武村洋一『海が燃えた日: 究極のヨットレース、アメリカズカップに挑戦したニッポンチーム』(2012)、山岡淳一郎『気骨: 経営者・土光敏夫の闘い』(2013) | ||||
| 山口開生(はるお) | 1925-2008 | 戦災によって壊滅状態にあった電話網の普及や電話の即時化等に貢献した。また日米貿易摩擦の問題が浮彫りになった1980年代には、独自の資材調達方法を確立し問題解消した。民営化を経て、1986年6月NTT副社長に就任。社長在任中(1988-1990)に会長・真藤恒がリクルート事件発覚によって辞任した | "山岡淳一郎による後藤 | ||||
| 新平" | "→郷仙太郎(青山やすし)『小説後藤新平』(1997)、草柳大蔵『実録満鉄調査部』(1979) | ||||||
| →星新一の父・星一は後藤新平の資金源とみなされ、政敵に圧力をかけられ破産した" | |||||||
| 児島仁 | 青山やすし | 1943- | ペンネームは郷仙太郎 | ||||
| 宮津純一郎 | 1936- | 社長就任時(1996-2002)は、Windows95の発売を発端としたITバブルの最盛期であり、ダイヤルアップ接続サービスの“OCN”を始めるなど通信網のデジタル化戦略を打ち出し「もはや電話屋ではない。」と収益構造の転換を図った。2013年11月 旭日大綬章を受章 | 草柳大蔵 | 1924-2002 | 「草柳氏の晩年は礼儀作法や若い女性向けの人生論のような書物が多数出され、もの優しい上品なおじさまというイメージだったが、実際は若いころ大宅壮一氏の下で梶山季之氏らとトップ屋を競ったバリバリのジャーナリストで、ノンフィクションを書かせたら徹底した取材と資料を駆使して必ず程度の高いものを書き上げた」→野村克也(1935-) | ||
| 和田紀夫 | "1940- | 放送と通信の融合の問題に積極的に取り組み、NTTと | |||||
| して映像配信のための通信網整備などを積極的に展開する考えを示すが直接的な放送事業への参入はしなかった。また、既存の固定電話設備の更改を事実上凍結し、2010年までに電話網のIP化と3000万人を光ファイバ網に収容するとの計画を発表した" | 小倉昌男 | "1924-2005 | 1948年、父・小倉康臣が経営する大和 | ||||
| 運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社" | |||||||
| 三浦惺 | 1944- | 小倉康臣 | "1989-1979 | 1919年、30歳の誕生日に大和運輸株 | |||
| 式会社を設立" | |||||||
| 鵜浦博夫 | アライド・バン・ラインズ社 | 1928 民間非営利の協同組合として設立された、アメリカの引っ越し会社を前身とする運輸業者。1957年にヤマト運輸と業務提携した。1999年に競合するノース・アメリカン・バン・ラインズと合併して持株会社アライド・ワールドワイド傘下になり、2002年にSIRVA社へ社名変更 | |||||
| 土光敏夫 | "1896-1988 | エンジニア、実業家。1920年、石川島造船所に入 | |||||
| 社。1965年、東芝(当時は、東京芝浦電気)の再建を依頼されて、社長に就任。1974年、経団連会長に就任した" | 矢野徹 | 1923-2004 | 翻訳家、小説家。フォレスト・J・アッカーマンと交流。『ウィザードリィ日記』(1987年)に、『ウィザードリィ』(1981年にApple版発売のゲーム)にNECのPC8801MRでハマり、パソコン文化にどっぷりとつかっていく様子を描いた | ||||
| フォレスト・J・アッカーマン | 1916-2008 | アメリカ人のSF/ホラー関連の編集者、版権代理人、作家。 | |||||
| 山中峯太郎 | 1885-1966 | 陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸軍士官学校卒業、最終階級は陸軍中尉。尾崎秀樹『評伝・山中峯太郎: 夢いまだ成らず』(1995)、北原尚彦『発掘!子どもの古本』(2007) | ジョージ・バーンズ | 1896-1996 | ニューヨーク生まれの俳優・コメディアン。 | ||
| 柴野拓美 | 1926-2010 | 小学校時代から山中峯太郎や海野十三に傾倒。1957年から『宇宙塵』を主宰 | |||||