ポップスの正統性こそが『ノスタルジア』では問われている。もちろん正統性なんていうものは、カギカッコで括られるべきものだし、もっといえば解体されてしかるべきものだ。音楽に限らず、正統性=本当の歴史なんてものを大真面目に語るとバカを見るし、自身が本当の歴史を知っていると確信した者は、自然と排他的でクローズドな空間に閉じこもるようになり、だれにも届かない言葉をつぶやき続けることになる。だから表現者たちは、複数の歴史を念頭に置きながら創作を続ける。岡田拓郎はそれら全てを承知のうえで、本作においてポップスの正統性と真正面から向き合っている。
彼のこういったアティテュードは、森は生きているの頃からそうだった。日本語ポップスの基準をはっぴいえんどに設定しながら、そこにジム・オルーク以降のポスト・アメリカーナ的サウンドや、グリズリー・ベアをはじめとしたゼロ年代以降のUSインディを軸にし、さらにジャズ、ブルーズ、ワールド・ミュージック……といった豊富な音楽的ボキャブラリーを肉付けすることで、類いまれなる日本語ポップスの地平を切り開いた。実験性と大衆性の同居。それこそが岡田拓郎の夢だった。
傍点筆者
------------------------------
最後に、G・K・チェスタトンの言葉を引用しておく。
平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。 人間そのもののほうが個々の人間よりはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの脅威よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。 あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心をゆすり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。 G・K・チェスタトン『正統とは何か』(春秋社・73ページ)安西徹雄訳