オランダの大学 アジアの美術大学 卒アル

 

大山ねずの命神示教会
単立宗教法人である。 信仰対象は「大山ねずの命」
「ねず」は教会独自の字で、「祇」のつくりの横画がないような字であるが、Unicodeで規定されていない
記紀神話に登場する「大山祇神(おおやまづみのかみ)」のことではなく、三島・山祇信仰とも無関係

湘南市
神奈川県平塚市藤沢市茅ヶ崎市高座郡寒川町、中郡大磯町、二宮町の6市町の合併構想により、新設が計画されていた人口約97万人(当時)の都市であり、政令指定都市の移行まで目指したが、合併まで至らなかった
合併が実現していれば、神奈川県第3位の人口を有する都市となり、2010年4月に政令市に移行した相模原市よりも規模の大きい政令市が誕生し、また同一県内に4つの政令市(横浜市川崎市相模原市・湘南市)を擁した可能性もあった

「ペンギンと愉快な機械の日々」
http://d.palmtb.net/index.html

窪田順生 (くぼた・まさき) 1974年 -
ノンフィクションライター。
東京生まれ。学習院大学文学部卒業。フライデーの記者を務めた後、30歳で朝日新聞に入社、その後実話誌編集長、お宝雑誌編集長などを務めた
闇金ウシジマくんの取材協力を務める。週刊ダイヤモンド週刊現代週刊ポスト週刊新潮などに寄稿する
企業の危機管理・メディア対応のコンサルティングもしている
2005年、新潟少女監禁事件を主題にした『汚れなき男の眼に』で第12回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞

「私事ですが……」
http://d.hatena.ne.jp/t_yamo/

「Motoharuの日記」
http://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/

「アスペ日記」
http://d.hatena.ne.jp/takeda25/


安藤治 1956年 -
心理学者・精神科医(医学博士)
花園大学社会福祉学部・臨床心理学科・教授
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会常任理事(初代会長)

樋口裕一 1951年5月14日 -
翻訳家・多摩大学教授、京都産業大学客員教授(非常勤タイプ)、東進ハイスクール客員講師(小論文)
白藍塾主宰
大分県出身。大分県立大分上野丘高等学校卒業。早稲田大学第一文学部演劇科卒業。文学修士(立教大学フランス文学専攻)
いわゆる「樋口式小論文」を編み出した人物で、「小論文はYESかNOを答える文章である。小論文は問題提起、意見提示、展開、結論の四部構成で書け」と主張している

斎藤学 (さいとう・さとる) 1941年2月23日 -
精神科医 、実業家
東京出身。1959年麻布高等学校卒。1967年慶應義塾大学医学部卒業
慶應医学部時代医局の先輩に小此木啓吾・なだいなだがいる。就職先が決まらず医局からも出される所に、小此木啓吾がフランス留学を斡旋した
フランス政府給費留学生でフランスの精神病院に研究員として勤務した。帰国後なだいなだの紹介で旧国立療養所久里浜病院アルコール病棟、東京都精神医学総合研究所(八幡山)を経て、1995年より医療法人學風会斎藤學診療所を麻布に設立。(現医療法人學風会さいとうクリニック)(さいとうクリニック内非営利組織家族機能研究所)
また、斎藤自身が立ち上げた「株式会社アイエフエフ」「NPO法人日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン」「日本子どもの虐待防止研究会」および「日本嗜癖行動学会」理事長

「作品データベース」
https://sakuhindb.com/

酒井伸和(さかい のぶかず、1971年 -
PCゲームブランド「minori」のプロデューサー。略称は「nbkz」。2007年4月現在、株式会社ミノリの代表取締役である。大阪府出身。室蘭工業大学大学院応用化学専攻修士課程修了

minoriのプロデューサーとして、同ブランドのゲームで原作・監督・監修やテーマソングの作詞等を務めている他、TYPE-MOONの「Fate/stay night」では背景に名を連ねている。コミックマーケット等の美少女ゲーム関係イベントや、新作発売前の販促活動でユーザーを対象としてトークを開き、自ブランドの内情や業界批評を話すことで一部に有名

 

「YamanoWeb.com ■山野浩一WORKS■」
https://yamanoweb.exblog.jp/

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サイモン・ウィーゼンタール・センター
Simon Wiesenthal Center、略称SWC
アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルスにある寛容博物館を運営する組織
ヴィーゼンタール・センターとも
同センターはホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の記録保存や反ユダヤ主義の監視を行い、国際的影響力を持つ
米ロサンゼルスに本部を置き、エルサレム・ニューヨーク・トロント・マイアミ・シカゴ・パリ・ブエノスアイレスなどで事務所を運営。民間の寄付で運営される非政府組織で、2012年は2億6000万ドルの寄付を受けた
1995年1月、文藝春秋の雑誌『マルコポーロ』がホロコーストを否認する記事を掲載したとして抗議し、同誌は廃刊となった

サー・サイモン・ヴィーゼンタール
Sir Simon Wiesenthal、1908年12月31日 - 2005年9月20日
ドイツのナチス政権下時代の戦犯追及で知られるオーストリアユダヤ教徒
名はドイツ語風に「ジーモン」とも表記される
オーストリア・ハンガリー帝国領ガリツィア地方のブチャチに生まれた
当時、彼の名前は Szymon Wiesenthal(シモン・ヴィーゼンタール)と綴られている
地元のルヴフ工科大学への進学を希望したが、ユダヤ人入学枠の制限から入学できず、チェコスロバキアプラハ工科大学に進んだ
大学では建築家を志して勉強していたが、反ユダヤ人を唱えるアドルフ・ヒトラー率いるドイツによるチェコスロバキア併合が行われた。さらに1939年9月に第二次世界大戦が始まると、間もなくドイツ政府のユダヤ人迫害政策によって強制収容所に収容された

エイブラハム・クーパー
またはエーブラハム・クーパー、アブラハム・クーパー
Abraham Cooper、1950年 -
アメリカ合衆国のラビで、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)副所長を務める
ニューヨーク生まれ。人権問題活動家として長年世界各地で活動してきた
1977年、ロサンゼルスに移り、SWC創設者で館長のマービン・ハイヤー Marvin Hier を助けるようになった
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)本部における反ユダヤ主義に関する国際会議、ホロコーストの被害補償に関するジュネーヴ会議、ベルリンでのデジタルヘイトに関する国際会議を組織した
雑誌『レスポンス』編集長
イェシーバー大学で学士号および修士号ユダヤ教神学院で博士号を取得している


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河野義行 1950年(昭和25年)2月 -
著述家である。鹿児島県霧島市在住
1994年(平成6年)に発生した松本サリン事件の被害者。事件後に警察およびマスメディアにより、事件の有力な容疑者であると見なされ報道被害を受けた
現在は、オウム真理教事件及びメディア・リテラシーに関する講演を行う傍ら、著述家としても活動している。特定非営利活動法人リカバリー・サポート・センター理事。「ヘイトスピーチレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表
愛知県豊橋市に生まれ、名城大学理工学部を卒業した。山岳写真家の河野齢蔵は妻の祖父にあたる
捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対してへの行為について直接謝罪したが、マスメディア各社は報道被害を認めて謝罪文を掲載したのみで、本人への直接謝罪は皆無であった。長野県警遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった
長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは河野が長野県公安委員会に就任して以後のことであった
2002年に長野県知事であった田中康夫の要請を受けて、長野県警を監督する長野県公安委員会を1期務めた

河野齢蔵 元治2年2月8日/1865年3月5日 - 昭和14年/1939年4月3日
高山植物学の権威、教育家、山岳写真家の草分け。河野常吉は実兄、著述家の河野義行は孫娘の夫にあたる
信濃国安曇郡犬飼新田村(現長野県松本市島内)に河野通重の四男として生まれる
1889年長野師範学校卒業
北アルプス八ヶ岳、北海道・千島列島・樺太の山に登山をし、高山植物の研究の傍ら山岳写真を撮影
山岳に関する多くの論考を学術雑誌に掲載し、近代登山の隆盛に資した
1906年に信濃博物会を結成、1910年に信濃山岳会を発足させ副会長となる

熊井啓 1930年6月1日 - 2007年5月23日
1960年代から2000年代にかけて活動した日本の映画監督
妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子
多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した
日本を代表する社会派映画の巨匠である
長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる
旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科乙類を経て新制の信州大学文理学部へ入学
大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ
さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児田坂具隆阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす
2001年、松本サリン事件を描いた『日本の黒い夏─冤罪』でベルリン国際映画祭に特別招待され、ベルリナーレ・カメラ(特別国際功労賞)を授けられた
→熊井は、自身の母親が理科教師を勤めていた当時の長野高等女学校(現・長野県長野西高等学校)の校長に河野義行の妻の祖父である河野齢蔵が就任していた縁で、幼少の頃に河野家に出入りしていた経験から河野家の家風をよく知っており、当初より「河野は事件に関わっている疑いが濃厚である」とのマスコミ報道についても「シロ」ではないかと感じていたという

西村雄一郎 1951年10月30日 -
佐賀県を拠点に活動する映画評論家
佐賀県県都佐賀市の老舗旅館「松川屋」の長男として生まれる。5歳の時、松竹映画『張込み』のロケ隊が実家の旅館に押し寄せてきた。ロケ隊が1ヶ月も宿泊地として借りきったためであった。特に刑事役の宮口精二から可愛がられた。小学校4年の時に黒澤明監督の『椿三十郎』に感銘を受けたのが、映画の世界をめざす契機となった
佐賀県立佐賀西高等学校卒業後、本格的に映画を勉強する事を志し、早稲田大学第一文学部演劇科に入学。大学1年の時、黒澤の自殺未遂事件が起き、その時黒澤についての卒業論文を書くことを決める。その黒澤明本人と偶然にも、映画館で隣り合わせに座り、インタビューすることに成功。完成した卒論『黒澤明その音と映像』は、16年後に出版化される
早大卒業後、キネマ旬報社に入り、パリ駐在員として3年間フランスに滞在。その間、ルネ・クレマンなど当時存命だった巨匠たちへのインタビューを数多くこなす

井上順孝(いのうえ のぶたか) 1948年 -
歴史学者宗教学者國學院大學神道文化学部教授。専門は宗教社会学
新宗教教派神道を研究。日本宗教学会元会長
鹿児島県出身。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程中退
1974年、東京大学文学部助手となる
1982年、國學院大學日本文化研究所講師となる
そのかたわら、近代の宗教運動の比較研究などにたずさわる
1986年助教授、1992年教授、同年『教派神道の形成』により博士号取得
2002年國學院大學神道文化学部教授
2006年、國學院大學日本文化研究所所長。宗教情報リサーチセンター長

西岡昌紀 1956年 -
医師、文筆家
東京都生まれ。東京学芸大学附属高等学校北里大学医学部卒業
元厚生省医務官。専門は神経内科脳梗塞パーキンソン病筋萎縮性側索硬化症など脳神経疾患に関する論文がある
また、日本医事新報に寄稿した「HIVは本当にエイズの原因か?」(3619号70-72頁、1993年)は、ミルコ・D・ゲルメク著、中島ひかる+中山健夫訳『エイズの歴史』(藤原書店、1993年)に、中山が訳者解説として寄稿した「エイズ解題」において、4ページに渡って紹介、検討されている(同書、441~444頁)。エイズ否認主義の説である
1990年代後半に、神経内科の領域で、厚生省研究班の班員であった時期がある
クラシック音楽のマネージャーである父親を通して、ピアニスト スヴャトスラフ・リヒテル、指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキー等との知遇を得る
ムラヴィンスキーを、1973年の初来日以来身近に知る数少ない日本人の一人であり、彼の人物像に関する著作(『ムラヴィンスキー/楽屋の素顔』リベルタ出版、2003年)がある他、小説の執筆や社会評論の雑誌寄稿もしている
2008年のインタビュー発言によれば、元々は非常に左翼的な思想の持ち主で、「週刊金曜日の読者の様な左翼」[2]であったと言う
それが、広瀬隆の著作を読む過程で、その近現代史への見直しに影響を受け、第二次世界大戦についての見方を改めたと言う(広瀬は『危険な話』や『億万長者はハリウッドを殺す』などで、ナチスが台頭する背景にアメリカの銀行の意向があったことなどを論じている)
また広河隆一らのパレスチナイスラエルに関する著書などから、ナチとシオニストが協力関係にあったことなどを知り、言われている近現代史の内容に疑問を持つに至ったと言う


兎束龍夫 (うづか・たつお) 1906年/明治39年7月9日 - 1985年/昭和60年3月7日
ヴァイオリニスト
銀行家兎束鐘一郎の息子として長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる
母は旧上田藩士の家系
兄に長野県丸子修学館高等学校の校歌を作曲した作曲家の兎束武雄がおり、その子供兎束淑美は指揮者で上田女子短期大学附属幼稚園の園長や上田女子短期大学教授などを務めた
息子に山梨大学教授の発酵学者兎束保之と、その弟の元東京音楽大学学長の指揮者、ヴィオラ奏者の兎束俊之がいる
旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、東京音楽学校に入学、安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う
大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がおり、東京芸術大学名誉教授や昭和音楽大学副学長などの役職にも就いている

新アメリカ安全保障センター CNAS; The Center for a New American Security
ワシントンD.C.に拠点を置くシンクタンク
2007年にミシェル・フルールノアとカート・キャンベルが共同で設立した
アメリカ合衆国の安全保障問題を専門に扱う

ジョージ・カーリン George Denis Patrick Carlin、1937年5月12日 - 2008年6月22日
アメリカ合衆国のコメディアン
放送禁止用語を多用して、アメリカ合衆国の政治や社会を痛烈に批判する笑いで人気を博した
また、子供向けテレビアニメーションきかんしゃトーマス』の米国版ナレーションを、第1シーズンから第4シーズンまで担当
1990年代に放送されていた『きかんしゃトーマス』の親番組『Shining Time Station』では、リンゴ・スターに次ぐ二代目駅長として出演した


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"ヴァンニーヴァーブッシュのテクノクラシーマクルーハンのメディア論に導かれ、WWWが登場し全世界がワイヤード上で情報を媒介するにあたって1984年を発端とし、脈々と築き上げられてきたサイバースペース
ペンタゴンarpanetを完全閉鎖し、AppleMacintoshはCPUをIBMから貰い、象徴であったレインボーカラーが消失、その後PowerPCIntelが登場した。
そのAppleが悪魔に魂を売った94年に私は誕生し、ネット世代と呼ばれるに至る。
数学、電気工学教授でパーソナルコンピュータ黎明期に貢献した祖父と新ロマン派画壇油絵画家の祖母により無線室とアトリエのある邸宅でコンピュータとマテリアルの英才教育を受けた。
現代にも、ITガジェットを使いこなす魔女がいる(20世紀半ばの『現代魔女術復権運動』後の70年代のヒッピー文化やフェミニズム運動、サイバー文化の影響での伝統が変容してきた一貫に過ぎない)。
また、サイバースペースの外においても身体/霊性を破壊する添加物食品の闇、統計学の真偽等は様々な場所で取り沙汰されてはいるが、かのスカイツリーロンギヌスの槍や、陰陽道に纏わる東京に張り巡らされた結界、引き寄せの法則(魔術/悪魔教会)など、現代を構築する様々なアーキテクチャに介入しているオカルティズムがある。
しかしマックス・ウェーバー社会学の観点から歴史の変遷における合理化、脱魔術化の完結があったと述べた。
ーすなわち教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。
世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思惟と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結をみたのだった。
現代においては失われつつある人々の霊性や心眼が世界そのものから真理を読み取る際、例えばそれは近年のサイバースペースにおいて発達・更新され続ける上層のアプリケーション(ソーシャルネットワーキングシステム等)のなかで我々は交信/共有するイメージや言葉、数字、記号の中に潜ませた魔術を発信したり受け止めている。
数秘術と記号はこの時ほぼ同じ魔術的役割を果たしていると考えられる。
魂を個のものと考え始めた数学者でもあり教祖でもあったピタゴラスは、インドの輪廻転生を取り入れた魂を清めて解脱するカタルシス思想を持ちながら物質の形は数字で捉えられるため全ては数で出来ているという捉え方をしていたが、現代の自己変容文化、20世紀半ばのアメリカの文化運動からカウンターカルチャーの発生後、その系譜を現代のインターネット上で交錯する記号は辿っていると考えられる。
言語学者イェルムスレウの記号の地層学的分類を手がかりとして、制度分析の可能性を構想したガタリ記号論フーコーの言説分析は、イメージを共有するに至るSNSアーキテクチャにおいて、屡々引き合いに出される。
オカルティズムを媒介する文字/画像において、信号もしくは意味作用のアプローチがあり、前者はコミュニケーションの意図が明示的に認知されるような記号、後者はコミュニケーションの意図が明示的には含まれていないにもかかわらず、解読者の側がそこに意味を見出すような記号によるものである。
全世界がワイヤード上で情報を媒介するにあたって、魔術作用を含んだ記号を各各の国で多様に表現の一部として落とし込んでいくという芸術的な文化が生じる。
その過程で象徴はイメージからファッション、音楽に落とし込まれたりして波紋していき、サタニズム、ニューエイジ、ゴシック、グランジ、メタルの要素を孕んだ末に生や死の観念へと帰結していく。
最近では非キリスト教的な救済手段として、レイヴ文化やクラブ文化などと呼ばれる現代のダンス音楽文化のなかで流行に及んだウィッチハウスと呼ばれるムーブメントなども、視覚的な象徴主義によってその魔術的な効果を担っている。
いわゆるミーハーな若者世代というのは敏感にそのようなムーブメントを察知し、個人の新たな自己表現を多様なアプリケーションを用いて容易に全世界に発信出来るようになった今、その表現の奥に潜む魔術効果ごと伝播させている。
効果というのは霊魂に直接作用するような仕掛けであり、視覚や音から人々の意識に介入しある種サイケデリックな効果であったり想像力を刺激する、そうした過程は合理化・脱魔術化後の再魔術化に他ならない"
http://46.xmbs.jp/shinitai7/

 


黒石迩守(くろいし・にかみ) 1988年 -
SF作家。千葉県市川市出身、現在も千葉県在住
東洋高等学校卒。東京情報大学情報システム学科卒
現在プログラマーとして勤務する会社員
2010年頃から自らのサイト「矛盾でふらぐ。」で同人小説を発表し、同コンテンツを同人誌として頒布し始めた
2011年末ごろより、小説投稿サイト「小説家になろう」で活動を開始
2015年8月、同サイトに投稿していた「ヒュレーの海」を星海社FICTIONS新人賞に投稿するも落選
翌2016年3月、「ヒュレーの海」を改めて第4回ハヤカワSFコンテストに投稿
同年10月、「ヒュレーの海」がコンテストで〈優秀賞〉に選出されデビューに至った

株式会社鳥影社 Choeisha co.,Ltd.
出版社。ドイツ文学と純文学の出版で知られる
主な出版物として『ヨーゼフ・ロート小説集』、『ローベルト・ヴァルザー作品集』、ノーベル賞作家・エルフリーデ・イェリネクの『ピアニスト』『死者の子供たち』など
文学雑誌「季刊文科」(編集委員は秋山駿、大河内昭爾、勝又浩、津村節子、松本徹、松本道介)を年四回発行し、芥川賞受賞の作家などが多数寄稿する
社名の由来は、詩人江守善三の「鳥の影のように生は過ぎ去る。翔(かけ)り過ぎたことさえ知られず、風化して消えてしまった数知れぬ生で歴史の流れは充たされている」による
本社・編集部 〒392-0012 長野県諏訪市四賀229番地1
東京営業所 〒160-0023 東京都新宿区西新宿三丁目5番12号トーカン新宿7F

アナイス・ニン Anais Nin
生まれた時の名は Angela Anais Juana Antolina Rosa Edelmira Nin y Culmell
1903年2月21日 - 1977年1月14日
フランス生まれの著作家であり、11歳の時から死ぬ直前まで60年間以上にわたって書き継がれた日記を出版したことで著名
また性愛小説家としても名高く、肉体的なことだけでなく、性の完全性と欠陥についても追求している
アメリカの著名な作家ヘンリー・ミラーの愛人であったことがその日記で明らかにされた
最初の夫は銀行家であり芸術家でもあるヒュー・パーカー・ギラー (1898-1985)であり、1923年3月に20歳で結婚した
1955年にルパート・ポールとも結婚したがギラーとの結婚は続けていた
ポールは森林監督官であり、建築家フランク・ロイド・ライトの継孫でもあった
ギラーが死んだ1985年以降に、ポールによってニンの日記の無修正版が出版された

騎士レーオポルト・フォン・ザッハー=マーゾッホ
Leopold Ritter von Sacher Masoch
1836年1月27日 - 1895年3月9日 フランクフルト・アム・マイン近郊リントハイム Lindheim
オーストリアの小説家、貴族。レンベルク(現ウクライナリヴィウ)生
ガリツィアをテーマにした物語が多い
「ザッヘル・マゾッホ」とも書かれる。ただしウィーンの発音では、母音の前のsを有声化しないため、「サッハー・マーソッホ」になる
初期は故郷を題材にした歴史小説を書いていた
『毛皮を着たヴィーナス』など、作品の一部に特徴付けられる精神的あるいは肉体的な苦痛に快楽を感じる倒錯は、精神科医クラフト=エビングによって、1886年に著書「性の心理学」でマゾヒズムと名づけられた(当時、マゾッホは存命中であった)
哲学者ジル・ドゥルーズによる『サドとマゾッホ』という著作もある。これは、精神分析において二項対立的に語られたサディズムマゾヒズムが、実は対立しない別ものである事を主張するものだった


リヒャルト・フォン・クラフト=エビング男爵
Richard Freiherr von Krafft-Ebing, 1840年8月14日 - 1902年12月22日
ドイツおよびオーストリアの医学者、精神科医である
クラフト=エビングは、性的倒錯の研究書として著名な『性的精神病理』(Psychopathia Sexualis)を1886年に公刊した
クラフト=エビングは、サディズムという用語を創案したことで、今日でもよく知られている
また、同時代の作家であるレオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの名からとってマゾヒズムという用語を造語した
ザッハー=マゾッホは半ば自伝的な小説である『毛皮を着たヴィーナス』(Venus im Pelz)の中で、美しい女性に鞭打たれ、その奴隷となって従属させられる欲望を述べている
クラフト=エビングは、フルネームを発音に応じて記述すると「リヒャルト・フライヘル・フォン・クラフトエビング」であるが、この名のなかの「フライヘル(Freiherr)」はミドルネームではなく、男爵に相当する貴族の称号である。「クラフト=エビング男爵リヒャルト」とも称することができる

『飛ぶパエトーン』The Fall of Phaeton
ピーテル・パウルルーベンスによる絵画
その名のとおり、ギリシア神話のパエトーンが仲間と一緒に飛ぶ様子の絵である
ルーベンスは、ゼウスによって投げつけられた雷を描くことにより、暗さを維持させ、パエトーンと馬の顔をわかりやすくし、光のコントラストを調節した。人物の体の集合体も同じように暗い部分と明るい部分を分離し表情を目立たせている。また、楕円形の周囲に観る者の視点をうまく移動させるため、配置が工夫されている

 

フランコドナトーニ Franco Donatoni、1927年6月9日 - 2000年8月17日
イタリアの現代音楽の作曲家
1927年6月9日にヴェローナに生まれる
ミラノ音楽院でエットレ・デスデリに、ボローニャのマルティーニ音楽院でリノ・リヴィアベッラに師事したのち、ローマの聖チェチーリア音楽院でイルデブランド・ピツェッティの上級作曲コースを卒業
1953年にはブルーノ・マデルナと出会い、1954年、1956年、1958年、1961年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加
新古典主義的な作風からポスト・ウェーベルン的な書法を経て、ジョン・ケージの影響を受けた図形楽譜による作曲に傾斜
その後、引用やオートマティズムによる作曲技法を展開した
後年ミラノ音楽院の作曲科教授とキジアーナ音楽院の客員教授を務めた

マウリシオ・ラウル・カーゲル Mauricio Raul Kagel
1931年12月24日 - 2008年9月18日
アルゼンチンのユダヤ系の作曲家。20代でドイツに渡り、生涯をそこで過ごした
1931年にアルゼンチンのブエノスアイレスにて生まれ、作曲は独学で学ぶ
1957年にケルンに移住し、ケルン放送の電子音楽スタジオで制作するなど、前衛音楽を推進
音楽と劇、映画を総合した芸術を提唱、独自の「総合芸術」として自ら企画して出演した
2008年にケルンで死去。死因は明らかにされていない

三枝 成彰(さえぐさ しげあき) 1942年7月8日 -
作曲家。株式会社メイ・コーポレーション代表取締役東京音楽大学客員教授日本作編曲家協会副会長、日本交響楽振興財団理事、日本現代音楽協会理事、渡辺音楽文化フォーラム理事、全日本ピアノ指導者協会(PTNA)相談役、サイバー大学客員教授
1989年までは本名の三枝 成章(読みは同じ)名義で活動していた

吉松隆 1953年3月18日 -
作曲家。東京都渋谷区生まれ
幕末維新期の国学者・大国隆正の子孫として東京代々木に生まれ育つ
父方の祖父は東宮(のちの昭和天皇)の侍医
幼少時は犬を飼っており、散歩中に発見したがらくたを組み立てることを日課としていたという
慶應義塾高等学校に入学した時は医学部進学を希望していたが、やがて交響曲作家に憧れ志望を変更
慶應義塾大学工学部在学中、松村禎三に弟子入りする
作風において影響は全く受けなかったと吉松は自嘲するが、1974年のピアノ独奏曲「シリウスの伴星によせる」(作品番号1)には松村を含む現代音楽の影響が濃厚である
和声と対位法を学ぶよう松村に勧められ、東京藝術大学教授の川井学を紹介されたが数ヶ月でレッスン受講を断念
1974年3月には慶応義塾大学を退学した
またこの頃には芸術音楽としての作曲を行う一方、ピンク・フロイド、イエスEL&P等のプログレッシブ・ロックに心酔し、キーボード奏者としてロックバンドにも参加した
1975年、松村の紹介で原田力男と出会い、1978年11月28日、原田主催のプライヴェート・コンサートで「忘れっぽい天使」を発表し、作曲家としてデビュー(ただし作曲料は無償だった)。その間、さまざまな作曲コンクールに20回ほど応募してことごとく落選したが、1980年、オーケストラのための「ドーリアン」が交響楽振興財団作曲賞に入選
次いで1981年に「朱鷺によせる哀歌」が現代の音楽展'81で初演され、高い評価を受け、若い世代の作曲家の1人として認知された
なお青島広志の著書『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)には、「朱鷺によせる哀歌」で尾高賞を受賞したという記述があるが(p.263)、誤り。吉松本人も自身のサイトで否定している


三輪眞弘 1958年11月27日 -
現代音楽の作曲家、メディアアーティスト
情報科学芸術大学院大学で教授を務める。東京都出身
東京都立国立高等学校卒業後、ベルリン芸術大学にて尹伊桑に師事し、その後ロベルト・シューマン大学にて学んだ
古川聖とは尹の下で同時期に学んだ兄弟弟子
第10回入野賞1位、第14回ルイジ・ルッソロ国際電子音楽コンクール1位、第14回芥川作曲賞、2010年度芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)ほか多数の受賞歴がある
2007年、アルス・エレクトロニカのデジタルミュージック部門にてゴールデン・ニカ賞(グランプリ)を受賞。受賞内約は、三輪が提唱した「逆シミュレーション音楽」

マース・カニンガム Mercier "Merce" Philip Cunningham
1919年4月16日 - 2009年7月26日
アメリカ合衆国のダンサー、コンテンポラリー・ダンサー、振付家。日本語ではマース・カニングハム表記もある
アメリカの西海岸ワシントン州出身
1937年、シアトルのコーニッシュ・スクールの生徒だったときにジョン・ケージと出会う
1939年にはニューヨークへ移り、マーサ・グレアムのダンス・カンパニーに参加する
のちに自作の発表をはじめ、グレアムのカンパニーを脱退したのち、マース・カニンガム舞踏団を結成
ケージ、デイヴィッド・チューダー、ゴードン・ムンマ、小杉武久らと共同作業を行った
ケージとは、生涯を通じたパートナーとなった。カニンガムはチャンス・オペレーションを自作に応用し、ダンサーの数、出来事などを決定したこともある
エリオット・カプランは、2人の40年以上にわたる共同作業のドキュメンタリー『ケージ/カニンガム』を制作している

リゲティ・ジェルジュ・シャーンドル Ligeti Gyorgy Sandor 1923年5月28日 - 2006年6月12日
ハンガリーの現代音楽の作曲家
クラシック音楽で実験的な作品を多く残したほか、スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」や「シャイニング」などに音楽が使用されたことでも知られる。ジェルジ・リゲティとも表記される

『Wonderland (ワンダーランド)』マガジンのファッションエディター Julia Sarr-Jamois (ジュリア・サー・ジャモア)
http://fashionpost.jp/fashion/fashion-news-event/5672

Just outside
http://olewnick.blogspot.jp/

ヘレン・フランケンサーラー Helen Frankenthaler, 1928年12月12日 - 2011年12月27日
アメリカ合衆国出身の画家。抽象表現主義の芸術家といわれる。姓はフランケンソーラーとも表記される
ニューヨーク市生まれ。父・アルフレッドはニューヨーク州高位裁判所判事、母・マーサはドイツからの移民だった
アシール・ゴーキー、ヴァシリー・カンディンスキージャクソン・ポロックらの影響を受けながらも、抽象表現主義独自のスタイルを築いた
1960年代に始まるカラーフィールド・ペインティング(カラーフィールド) color-field painting, Color Field の代表的画家の一人であり、下塗りをしていないキャンバスに薄く溶いた絵の具を染み込ませるステイニングの手法を発案した(1952年制作の『山々と海(マウンテンズ・アンド・シー)』はステイニングによる最初の作例である)
その手法はモーリス・ルイスをはじめとする多くの画家に影響を与え、様々なかたちで継承・発展されている

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上野川修一
日本大学教授 東京大学名誉教授
1942年、東京に生まれる
1966年東京大学農学部農芸化学科を卒業、大学院を経て東京大学助手となる
その後助教授を経て、1988年東京大学教授、2003年東京大学名誉教授、日本大学生物資源科学部教授となり、現在にいたる
研究分野は食品免疫学。特に食物による腸管の免疫系の活性化のしくみ、食物によるアレルギーの研究など
著書としては、『免疫と腸内細菌』(平凡社新書)、『食品とからだ-免疫とアレルギー』(朝倉書店)

さかな
ポコペンと西脇一弘が中心となって結成されたバンド
ポコペン(冨田綾子)(Vocal,Guitar) - 元GO-BANG'S。
西脇一弘(Guitar) - 元THE GOD。画家、絵本作家としても活動
1983年に西脇、本間、林の3人で「さかな」を結成
1987年末のゴットとギャザースの対バンで西脇がポコペンと出会い意気投合
以後数回のメンバーチェンジを経て、現在はポコペンと西脇のデュオで活動を続けている
ゆらゆら帝国坂本慎太郎クラムボン原田郁子などから、高い評価を得ている

「探検コム」
http://www.tanken.com/


ハイ・ライズ High Rise
サイケデリック・ロック・バンドである。南條麻人と成田宗弘を中心に結成された
1982年、「サイケデリック・スピード・フリークス (Psychedelic Speed Freaks)」として結成
1984年、明大前のレコード店モダーン・ミュージックが主宰するPSFレコードの第1弾として、初のアルバム『Psychedelic Speed Freaks』をリリースすると同時に、バンド名を「ハイ・ライズ (High Rise)」に改名
1986年、2nd.アルバム『High Rise II』をリリース
1994年、ライヴ・アルバム『Live』をリリース
2002年、『Destination: Best of High Rise』をリリース


羽野昌二
打楽器奏者。1970年代からアヴァンギャルド・ジャズの演奏を始め、新体道の概念を基礎にした独自のスタイルで、近藤等則阿部薫らと共演。太鼓とドラムスによる即興演奏グループ、ポリプレス・パーカッション・バンドを率いる一方、1990年代に初の欧州ツアーを行って以来、世界各国を巡り国内外のミュージシャンと幅広く活動する
ペーター・ブロッツマン、ヴェルナー・リュディ、ウィリアム・パーカー、デレク・ベイリー灰野敬二山内テツらとの演奏はCD化されている。近年ではサイケデリック・ロック・バンド、High Riseへの参加、同バンドのギタリスト成田宗弘とのデュオ、兇悪のインテンション、また河端一津山篤猪武者Dare Devil Band などジャンルを越境した活動をみせている。2007年5月にはドイツのMoresJazz Festivalにて演奏、ベルリンを中心に活動しているギタリストOlaf Rupp(オラフ・ラップ)と共演している
2008年にはこれまで共演した事のある海外アーティストを日本に招きツアー、スタジオ・レコーディングを行っている。また近年の活動に於いては国内の若手ミュージシャンとの演奏活動も行っている


中原めいこ 1959年5月8日 -
千葉県四街道市出身の女性シンガーソングライター
本名は小原 明子(おばら めいこ)。千葉県立四街道高等学校卒業
実家は燃料店を経営。1980年代を中心に活動
幼少よりピアノを学び、夢はアイドル歌手になることだったが自分の華のなさに気付き挫折した経験を持つ
芸名の由来は本名の小原と女優の大原麗子の中間を取って中原にしたとザ・ベストテンなどで語っている
デビュー前には鈴木邦彦主催のポップススクールに在籍していて、中原本人が大ファンでもあった郷ひろみや他のアーティストのコンサートやライブに一時期コーラスで参加していたことがある
1982年に『今夜だけDANCE・DANCE・DANCE』でデビューし、1984年にはカネボウ化粧品夏のキャンペーンソング『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』が大ヒットした

 

「古田雄介の“顔の見えるインターネット”」
http://ascii.jp/elem/000/000/046/46114/

「A Cinematic Museum (of Arnold Killshot)」
http://killshot.blog65.fc2.com/

末木新 (すえき・はじめ) 1983年 -
心理学者、和光大学現代人間学部心理教育学科准教授。博士(教育学)(東京大学)
臨床心理士。専門は臨床心理学、自殺予防、認知行動療法
東京都生まれ
2007年3月東京大学教育学部を卒業
2009年東京大学東京大学大学院教育学研究科修士課程を修了
2012年東京大学大学院教育学研究科博士課程を単位取得退学
2012年3月22日に博士(教育学)の学位をえる(甲第27705号)
2014年4月から和光大学現代人間学部心理教育学科講師となる(2016年3月まで)
2016年4月より和光大学現代人間学部心理教育学科准教授に就任する

ジム フィータス Jim Foetus 1960 -
ミュージシャン。メルボルン(オーストラリア)生まれ。
1978年、英国に渡り、レコード店に勤務する傍ら、自身のレーベル、セルフ・イモレイションをスタートさせる
1984年、マット・ジョンスンらとサム・ビザー・レコードよりメジャー・デビュー・アルバム「ホウル」を発表し、サンプリングを酷使したサウンドなどで好評を得る
その後、ワイズブラッドを結成し活動する一方で、多くのアーティストのプロデュース、エンジニアリングも手がけた

日清パワーステーション NISSIN POWER STATION
かつて東京都新宿区新宿六丁目の日清食品東京本社ビルの地下に所在していたライブハウス
通称パワステ、新宿パワステ
バブル景気絶頂期で第二次バンドブームの中、MZA有明 (現:ディファ有明) などの新興ライブハウスが東京各地に開業していた1988年開業。Rockin' Restaurantのキャッチフレーズで「食事もできるおしゃれなライブハウス」として人気を集めた
様々なバンド・アーティストが出演したが、日清食品(当時)の経営悪化により、赤字部門の全面的閉鎖にともない、日清フーディアム全部門1階、2階レストランと共に地下にあったパワステも1998年6月30日をもって閉鎖された
営業されていた頃はFM東京 (TOKYO FM)で「Nissin Power Station」というラジオ番組が放送され、有名アーティストのライブに、毎回抽選にて観客を無料招待し、その模様を放送した。 カメラが何台も設置されていて、ライブ中パワステ内に何台もあったモニターにステージが映し出されていた
地下構造なので、B2が1階席、B1が2階席、SDSが中2階席に相当する
SDS(スペシャル・ディナーシート)
その名の通り、食事ができる席。入場料に加えて、3000円のパワステ弁当または5000円の日替わりコースメニューの注文が義務づけられていた。メニューに出演アーティストのサイン(コピー)がプリントされていた。この席のみフリードリンク制。
B1席
酒を片手にライブが楽しめる。
B2席
飲酒や喫煙は不可のオールスタンディング席。別名未成年席(前2種は未成年者の入場が厳禁されていたため)。ライブの内容によっては、可動席が用意された

「ミナ…」
http://need.seesaa.net/


柘植久慶 1942年6月21日 -
作家、軍事評論家、コイン研究家。本名・平木啓一
愛知県蒲郡市出身。慶應義塾大学法学部政治学科卒業
海外旅行に行く日本人がまだ少なかった1961年、大学1年の夏期休暇で単身欧州へ渡航中、ベルギーの首都ブリュッセルのホテル近くのバーでスカウトされ、カタンガ国の傭兵隊の一員としてコンゴ動乱に参加した
1962年、アルジェリア戦争においてフランス外人部隊の格闘技教官(中尉待遇)として参加
1965年、外資系商社に入社、市場調査等で海外を巡る
1973年より株式会社ジェミニ代表取締役を6年余り勤め、その後、外資系商社社員として海外出張も数多く経験したが、その特異な経歴を生かし1985年頃より作家に転身

 

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工藤精一郎 1922年4月25日 - 2008年7月9日
ロシア文学者。本名は工藤精一
福島県生まれ。福島中学(現福島県立福島高等学校)卒業。ハルビン学院卒業。ロシア文学会会員
日ソ文化交流機関講師、関西大学教授等を歴任。数多くのロシア文学・ロシア語文献を翻訳した

平井イサク 1929年11月11日 - 2007年11月30日
翻訳家。東京生まれ。本名・以作。詩人平井功の子、正岡容の甥
早稲田大学文学部中退。日本文芸家協会日本脚本家連盟会員
詩の雑誌編集、雑誌「宝石」の翻訳、単行本翻訳、テレビのアテレコ翻訳などを手がける
推理小説、サスペンス小説を主に翻訳し、特にアリステア・マクリーンの訳が多い
1955年、室町書房にて都筑道夫と日本初の海外SF紹介叢書である「世界空想科学小説全集」を企画し、自ら翻訳を行ったが、2冊で刊行は中断している

ティッチボーン事件 Tichborne case
ヴィクトリア朝時代の1860年代から1870年代にイギリスで起こった事件
海難事故で行方不明となっていた準男爵家の相続人として名乗り出た人物の正統性をめぐり、当時の社会に一大センセーションを巻き起こした

トミー・ウンゲラー(Jean-Thomas "Tomi" Ungerer,1931年11月28日
フランス人児童文学作家、イラストレータ
1931年、フランスアルザス地域圏ストラスブール生まれ
1956年、アメリカに移り住んだ
1998年に国際アンデルセン賞画家賞を受賞した

久里洋二 1928年4月9日 -
洋画家、漫画家、アニメーション作家、イラストレーター、絵本作家
福井県鯖江市出身。文化学院美術科卒業


猪瀬聖
慶應義塾大学卒。米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了
日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立
日経では、食の安全、暮らし、働き方、ライフスタイル、米国の社会問題を中心に幅広く取材
現在は、主に食の安全やライフスタイル、米国の社会問題などを取材し、雑誌などに連載
また、日本人の働き方の再構築をテーマに若手経営者への取材を続け、日経新聞電子版などに連載している
著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』

ブロックソート、ブロックソーティング、Burrows-Wheeler変換
Burrows-Wheeler Transform; BWT
1994年にマイケル・バローズ (Michael Burrows) とデビッド・ホイーラー (David Wheeler) が開発した可逆変換の方式で、データ圧縮の前処理に応用される
ブロックソート自体はデータの大きさを変えない。しかし、データを整列することでデータ中に出現するパターンを、いくつかのよく知られている手法で圧縮し易いものにできる。後処理としてMove To Front (MTF)・連長圧縮 (RLE)・エントロピー符号と組み合わせて、データを圧縮する
実装はbzip2等

株式会社JVCケンウッド JVC KENWOOD Corporation
神奈川県横浜市神奈川区に本社を置く、映像機器・音響機器・無線機器・音楽映像ソフトメーカー
2008年(平成20年)10月1日に、日本ビクター株式会社と株式会社ケンウッドが経営統合のため、共同で株式移転を行い、両社の持株会社JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社として設立した
日本ビクターの松下グループ(現・パナソニックグループ)からの離脱を機に設立されたため、かつての親会社だったパナソニックの持分法適用関連会社となっていたが、2011年(平成23年)1月の第三者割当増資により20%以下となり、持分法適用会社から外れる
2011年8月1日に、JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社から株式会社JVCケンウッドに商号変更し、同年10月1日には傘下の3事業会社(日本ビクター株式会社、株式会社ケンウッド、J&Kカーエレクトロニクス株式会社)を吸収合併して、事業会社となる


倉原直美 19??年 -
工学者、実業家。株式会社インフォステラの創業者、代表取締役CEO
大分県立竹田高等学校出身。2010年、九州工業大学大学院博士後期課程を修了(電気電子工学専攻)
在学中は人工衛星の環境計測装置の研究開発に従事
博士前期課程1年次に衛星設計コンテストで奨励賞を受賞
2年次にJAXA宇宙科学研究所で1年間研究
博士後期課程2年次にはイギリスのサリー大学サリー宇宙センターへ留学
その後、東京大学工学系研究科航空宇宙工学専攻の特任研究員として、2013年まで低軌道衛星の開発プロジェクトに携わる
プロジェクト終了後、民間の衛生運用システムメーカーの最大手、米Kratos Integral Systems Internationalの日本チームで国内および海外の複数の商用静止衛星プロジェクトに携わる
2016年に株式会社インフォステラを共同設立
2017年9月には8億円の資金調達が話題になった
2018年に衛星通信アンテナ共有事業のローンチを目指す

コモンズの悲劇 Tragedy of the Commons
多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則
共有地の悲劇ともいう
アメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンが1968年に『サイエンス』に論文「The Tragedy of the Commons」を発表したことで一般に広く認知されるようになったが、発表後多くの研究者も反論を唱えた

ラスベガス・コンベンション・センター Las Vegas Convention Center、LVCC
アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス所在のコンベンション・センター。ラスベガス観光局が管理・運営している
世界最大級のコンベンションセンターである。屋内スペースの総面積は、320万平方フィート。16の展示ホール(194万平方フィート)および144の会議室を有する
主な開催行事としては、毎年1月に行われるコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)、毎年4月のNAB展などがある
かつては、毎年11月にCOMDEXが開催されていた
また、ボクシング興行にも使われたことがあり、モハメド・アリが1975年5月16日にロン・ライルとの防衛戦を行っている(結果はアリの11RTKO勝ち)

ヤーコプ・ヨハン・バロン・フォン・ユクスキュル
Jakob Johann Baron von Uexkull
1864年9月8日(ケブラステ) - 1944年7月25日(カプリ島)
エストニア出身のドイツの生物学者・哲学者
それぞれの動物が知覚し作用する世界の総体が、その動物にとっての環境であるとし、環世界説を提唱
動物主体と環世界との意味を持った相互交渉を自然の「生命計画」と名づけて、これらの研究の深化を呼びかけた
また生物行動においては目的追求性を強調し、機械論的な説明を排除した
ユクスキュルの生物学はA.ポルトマン やコンラート・ローレンツなどいちぶ動物行動学者には影響を与えたものの、動物学者にはあまり影響を与えなかった
ユクスキュルの影響は、1920年以降、むしろ哲学方面にあった
エルンスト・カッシーラーがユクスキュルを高く評価したほか、マックス・シェーラー、ヘルムート・プレスナー、アルノルト・ゲーレンらの哲学的人間学に影響を与えた
当時の西欧知識人の人間観に多大な影響を与え、「新しい生物学の開拓者」と呼ばれた
ユクスキュルの哲学への影響を論じたものに秋澤雅男などがある
主としてマルティン・ハイデッガー、モーリス・メルロー=ポンティを介して紹介された
山極寿一は、今西錦司の「生活の場」概念がユクスキュルの「環世界」に類似していると指摘している
意味論(記号学)では菅野盾樹、経済学では機能環の概念が塩沢由典にも影響を与えた
建築では、吉村靖孝が「自然とか、環境そのものを生み出すと考えると手も足も出なくなってしまうものが、環世界をつくっていると意識するだけでスイスイとドライブしはじめる。」と語っている

アルス・エレクトロニカ Ars Electronica
オーストリアリンツで開催される芸術・先端技術・文化の祭典で、メディアアートに関する世界的なイベント
「インターナショナル・ブルックナー・フェスティバル」の一環として1979年に始まり、1986年には独立したイベントとして例年開催されるようになった
1995年までのディレクターはペーター・ヴァイベル
毎年のフェスティバル(展覧会、パフォーマンス公演、作品上映、シンポジウム)のほかにアルス・エレクトロニカは、メディアセンターや美術館・博物館としての機能を持つ、「アルス・エレクトロニカ・センター」(Ars Electronica Center)を1996年から運営している
また制作のためのアトリエや、芸術や技術の未来を研究する機能のある「フューチャーラブ」(Ars Electronica Futurelab)も設けている
1987年からは「アルス・エレクトロニカ賞」(Prix Ars Electronica)を主催し、メディアアートに革新をもたらした者を表彰している
ゴールデン・ニカ賞は「コンピューター界のオスカー」とも呼ばれ、広く知られている
日本からも審査員やアドバイザーが参加している

アラン・ワッツ
イギリスの哲学者


ゲーム批評
マイクロマガジン社(創刊時はマイクロデザイン出版局)が1994年から2006年まで発行していた主に家庭用テレビゲームの批評を中心とした雑誌
創刊経緯は、マイクロデザイン第2編集部が編集していた角川書店のゲーム雑誌『マル勝PCエンジン』が休刊し、編集スタッフの受け皿となるゲーム雑誌をやりたいが、資本がないためにゲームレビューに特化したゲーム雑誌というコンセプトで萩野谷貴史が企画立案した
企画時の編集スタッフは小泉俊昭、大脇雅和、萩野谷貴史、浜野一成の4名
業界に強い影響力を持つ「ファミ通クロスレビュー」を受けてのアイディアだった


ティルマン・バウムガーテル 1966 -
Tilman Baumgartel (born 1966, Wurzburg, Bavaria, Germany)
ドイツ出身の作家、メディア学者、ジャーナリスト
a German author, media theorist and journalist. He is currently professor of media theory (department design) at the University of Applied Sciences, Mainz.
https://0100101110101101.org/press/1999-10_Copies_are_more_important.html


飯田和敏 1968年11月26日 -
ゲームクリエイター。元有限会社バウロズ取締役社長
立命館大学映像学部インタラクティブ映像学科教授
東京都生まれ、千葉県育ち。多摩美術大学油絵科卒
アートディンクを経て、1996年6月に有限会社パーラム(2003年9月に有限会社バウロズと改名)を設立
講師活動や、麻野一哉・米光一成との作家・研究活動、『げんしけん』の小説執筆などで商用ゲーム制作から遠ざかっていたが、2009年より復帰、2010年から3年間はグラスホッパー・マニファクチュアに在籍
2011年8月21日公開の日本科学未来館常設展示「アナグラのうた0消えた博士と残された装置」の演出を担当
同時期、東京工芸大学デジタルハリウッド大学で教授を務める
2015年4月からは立命館大学映像学部 教授に就任
文化庁メディア芸術祭エンターテイメント部門の審査員を第17回(2013年)から第19回(2015年)まで務める

ツルシカズヒコ(本名:靍師 一彦(読み同じ)、1955年8月5日 - )は編集者、会社経営者。宮城県遠田郡小牛田町(現・美里町)出身。早稲田大学法学部卒業。元『週刊SPA!』編集長。現在は『Crazy Yang(クレイジー・ヤン)』編集長。『Crazy Yang(クレイジー・ヤン)』の経営母体である株式会社ハッピーコーイング代表取締役。裁縫家、漫画家、イラストレーターのワタナベ・コウは妻

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ライデン大学 Universiteit Leiden
オランダのライデンに所在する公立大学
日本語では「レイデン」と表記することもある
現在のオランダ国内にある大学としては最も古い
八十年戦争におけるネーデルラント側の指導者ウィレム1世によって1575年に設立された
現在でもオランダ王室オラニエ=ナッサウ家との繋りは強く、ユリアナ女王およびベアトリクス女王、また現在の国王ウィレム=アレクサンダーライデン大学出身である
ベアトリクス前女王は2005年にライデン大学から名誉学位を授与されている
オランダ黄金時代にその隆盛を極め、このときにヨーロッパの多くの学者が、ネーデルラント連邦共和国(当時)の自由な学術的風土とライデン大学の世界的評価を理由にライデンを訪れた
この間、同大学は、ルネ・デカルトレンブラントフーゴー・グローティウス、バールーフ・デ・スピノザ、ポール=アンリ・ティリ・ドルバックといった人物の活動の拠点となった
地球の年齢を推定した地質学者ジェームズ・ハットンも1749年に、医学校で学び、医学の学位を取得している
日本との関わりは深く、シーボルトが同大学で研究していた為、大学やその他付属の機関に彼が日本から持ち帰ったものが所蔵されている
また、世界で最初に日本学科が設置(1855)されたのはこのライデン大学であり、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが初代日本語教授を務めた
現在は小和田恆国際司法裁判所判事が名誉教授として所属している
西周はオランダ留学中にフリーメイソンに入会しているが、その署名文書がライデン大学に現存している

オラニエ=ナッサウ家 Huis Oranje-Nassau
現在のオランダ王家
元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流である
ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占した
ナッサウ家のうちナッサウ=ディレンブルク伯オットー1世の家系は、14世紀から15世紀にかけてネーデルラントに勢力を伸ばし、随一の名門となっていた
16世紀初めにはブレダ領主ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州の総督に任命されている
ヘンドリック3世と弟のナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルムはそれぞれ、ネーデルラントを含むライン左岸の領地と、ナッサウ家伝来のライン右岸の領地とを相続していた
ヘンドリック3世の息子ルネ・ド・シャロンは父の遺領に加えて、母方の叔父から南フランスのオランジュ公領(元来は神聖ローマ帝国に属した)も相続していたが、1544年に戦死した
跡継ぎがいなかったルネの遺言により、ヴィルヘルム1世の長男ウィレムは、従兄ルネの遺したネーデルラントの所領とオランジュ(オランダ語でオラニエ)公領を11歳で相続し、オラニエ公ウィレム1世となった
以後、ウィレム1世の子孫は代々オラニエ公を継承し、その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる
ナッサウ=ディレンブルク伯の所領は父ヴィルヘルム1世から次男ヨハン6世に相続された

ナッサウ家 Haus Nassau
ドイツ西部のライン地方を発祥としたヨーロッパの貴族、君主の家系
1代限りながら神聖ローマ帝国の君主(ローマ王)も出した家系で、現在のオランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家ルクセンブルク大公家であるナッサウ=ヴァイルブルク家はともに同家の流れをくんでいる
ライン川中流のナッサウに城を構えたナッサウ伯がその起こりであり、12世紀終わり頃に初代ナッサウ伯となったヴァルラム1世を祖とする
ヴァルラム1世の孫のヴァルラム2世とオットー1世以降、ナッサウ家はヴァルラム系、オットー系の2つの系統に分かれる

ナッサウ Nassau (Lahn)
ドイツ連邦共和国 ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡に存在する市
ナッサウ連合自治体 (独: Verbandsgemeinde Nassau) の行政庁所在地となっている
バート・エムスとリンブルク・アン・デア・ラーンの間のラーン川渓谷にあり、ドイツ-オランダ間を巡回する、オラニエ街道(あるいはオレンジ街道とも)沿いにある

オランジュ Orange
南フランスプロヴァンス地方のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴォクリューズ県にある市
人口約2万8千人
アヴィニョンの北方21キロに位置する
英語ではオレンジ Orange、古いオランダ語ではオラニエ Oranje となる