ドナルドキーン『石川啄木』2016.2、令和4年文庫。
9- 1️⃣自信と反抗
20 明治19, 1886年に石川啄木が生まれた。日戸村。常光寺。
20 伝記作家たちが啄木誕生の地を渋民村としていることの間違いを最初に指摘したのは金田一京助1882-1971で、
25 妹の光子1888-1968 によれば啄木は自然児だった。←『啄木全集』8巻。三浦光子「幼き日の兄啄木」、金田一京助「晩年の石川啄木」。
31 一禎は旧派の多作な歌人で、四千首近い短歌を残した。→三浦光子『兄啄木の思い出』
34 のちに啄木の人生で重要な役割を演ずることになる宮崎郁雨(1885-1962)は、啄木と母との関係に何かしら「病的なもの」があることに気づいたが、それ以上のことは述べていない。
41 明治32年(1899)、当時13歳だった啄木は同い年の少女堀合節子に出会った。写真で見る限り、節子は明らかに美人ではない。
47-2️⃣上京、失意、結婚
48- 啄木が上野駅に着いたのは、明治35年(1902)11月1日の朝だった。
52 最初の一週間、啄木はたいして勉強しなかった。美術画廊を巡っては例によってお世辞抜きの印象を日記に記したり、愛する「白百合」に何時間も想いを馳せたりしている。しかし、たいていは孤独で退屈だった。啄木はものすごい勢いで短歌を作り鉄幹に送ったが、反応はなかった。
52 鉄幹は11/9、啄木を牛込の城北倶楽部で開かれた詩人の会に。岩野泡鳴1873-1920. の詩を読んで、啄木は自分の短歌を不規則な長さに区切る手法を思いついたのかもしれない。
66 啄木は『タンホイザー』の「巡礼の合唱」のような、自分が知っている数少ないワグナーの作品に深く感動していた。
67 晩年の啄木が突然政治に関心を示したのは、不成功に終わった1849年のドレスデン革命に参加したワグナーを見習いたかったからだという説がある。しかし、これはありそうもないことである。
70 明治38年(1905)5月12日、啄木の父一禎は婚姻届を出して節子を石川家の戸籍に入れた
73 盛岡に到着したのは6月4日で、啄木は数週間ぶりに節子に会った。一軒の家が新婚夫婦のために借りられていた。その家には新婚夫婦と啄木の両親、妹、そして家主の家族が一緒に住んだ。
74 明治38年の啄木の主な文学活動は、処女詩集『あこがれ』の出版である。
75 その後の『あこがれ』の評価に止めを刺したのは、詩人で英文学者の日夏耿之介1890-1971だった。「早熟少年の模倣詩集にすぎない」
77- 3️⃣渋民村で代用教員となる
84 明治38年1905. の啄木の主な文学活動は文学雑誌「小天地」の創刊で、
91 「明星」12月号に短篇『葬列』が掲載。金田一京助から葉書
93 明治39年12月29日、啄木と節子の最初の子供である女児京子が生れた。
95- 4️⃣一家離散、北海道へ
109 小説『葬列』を発表、金田一京助のような友人は高く評価、鉄幹は、信頼のおける批評家の間で非難が多いと告げ。
115 心に不安を抱えていたにもかかわらず、この時の旅の記述には啄木の散文の最も美しい一節の幾つかが含まれている。
116 啄木は、おそらく生れて初めて妹に兄らしい優しさを見せた。
135
関東大震災後の東京は、多少とも谷崎が望んだ方向で復興したが、すでに谷崎の嗜好の方が変化していた。谷崎が新たに住む場所として選んだのは、近代都市の煌めく灯火の中ではなくて、地震によって古い文化が少しも損なわれなかった地域ーー関西だった。ほどなく谷崎は、かつては破壊されることを望んで
いたその伝統的な建築様式を礼賛するようになる。最後まで反逆者だった啄木は、函館の市街の破壊を惜しむことはなかった。
146 綱島りょうせん。梁川、キリスト教学者1873-1907.
155-156 宮崎郁雨と石川啄木との友情。
190 明治41年は事実、最も多作で最も素晴らしい詩歌を書いた年だった。1908
198 翌4月3日は神武天皇祭だった。空は晴れて雲もなかったが、海は荒れていた。港内では白い波が盛んに起伏していた。啄木は艀に乗り、二、三度波をかぶった後、なんとか酒田川丸に乗り込んだ。
204 宮崎は啄木の妻節子が好きだったし、ついには節子の身代わりででもあるかのように節子の妹と結婚している。
210 同日午後、啄木は森鷗外宅の歌会に出席した。
213 当初、啄木は会話を書くのがうまく行かず、特に女性の言葉遣いが苦手だった。
216 ツルゲーネフの野郎と叫んだ。そして、『その前夜』に匹敵する作品を必ず今年中に書くと宣言する。
219 身一つ、心一つ、それすらも遣場のない今の自分!
222 六月二十三日の夜、啄木は枕についてから歌を作り始めた。興が刻一刻と盛んになって、ついに徹夜した。翌日数えてみたら百二十首余もあった。
226 啄木はただちに写真を送るよう頼んでいる。→53.『石川啄木全集』第7巻、261
229 「明星」が失敗したのは、「明星」の特徴だったロマンティシズムに対抗して、詩歌におけるリアリズムがますます人気を得て来たからだった。
233- 9️⃣
235 平出修1878-1914. 歌人で弁護士の平出は、やがて啄木の人生で重要な役割を演じることになる。
236 啄木は、「明星」をも上回る新雑誌を作るのだという見込みに、もはや心をときめかさなくなったかのようだ。自分の意見が聞き入れられなかったために啄木は腹を立てていた。
236 平野万里との議論、吉井
239 伯爵家の次男である吉井勇
244 しかし啄木が生前、金田一京助の一番大事な仕事であるアイヌ語の研究について、「一体アイヌ語をやって何になるんです」と詰問した時、金田一はやはり同じように辛い思いをしたに違いない。金田一は、まるで蹴られたような気がしたという。
245 しかしながら啄木が年頭に、詩歌および散文の作家として最も輝かしい時期に入ると予言したのは正しかった。【明治42年4月から6月にかけて、啄木は日本文学に前例のない作品『ローマ字日記』を書いた。翌43年12月には、処女歌集にして最高傑作である『一握の砂』が刊行された。】
247 啄木がいかにたくさんの洋書を読んでいたか、我々は知っている。ーーーふつうは買った書籍を二、三日で売っていて、これはかなりの失費というか無駄である。
249 北原白秋と浅草で祝いの乾杯、坪仁子とは、釧路で啄木が愛して捨てた芸者「小奴」の本名だった。
250 ワイルド、小奴の電報為替に対する気持を記していないのは不可解である。また上京して啄木と暮らすという母カツの決意に、なぜそんなに悩むのか日記で沈黙しているのは、
253 森鷗外の『半日』
(239 明治42年、1/9に森鴎外宅で催された歌会で、啄木の歌は最高点を得た。)
257 明治42年、6/16 啄木は前年9/6以来住んでいた下宿を出て、金田一が見つけてくれた本郷弓町の床屋の二階の二間に引っ越した。
257 二人の胸には、「異様な別れの感じ」
258 6/16の朝、啄木と金田一は上野駅のプラットホームで啄木の家族を出迎えた。
→308 明治42年、10/2 には危機が出来している。京子を連れて天神様へ行くと啄木の母に伝えて家を出た節子が、そのまま盛岡の実家に直行
258 啄木の生活の大きな変化は明治43年1910. 4月、朝日新聞が発行する全4巻の『二葉亭全集』の編纂者、西村酔夢が朝日を辞職したことから始まった。
→この驚くべき昇進が実現したのは、啄木の非凡な能力を認める他の朝日の社員たち(たとえば、夏目漱石ら)
261- 🔟傑作、ローマ字日記
264 北原白秋が詩集の題として蘇らせた「邪宗門」という言葉は、おそらく16世紀か17世紀の日本人が、
285 (すでに人のいない所へ行くこともできずらさればといって、何一つ満足を得ることもできぬ。
288 啄木は、飽くことなく自己を分析する。自分に「弱者」というレッテルを貼るが、同時に一番親しい人から順々に知っている限りの人間を残らず殺したいと思う。
290 啄木の主な文学的楽しみは、今や貸本屋の親爺が持ってくる昔の好色本を読むことだった。
290 その夜、啄木は金田一京助の部屋へ行き、胸に人の顔を書いたり、いろいろ変な顔をしてみせたりした後で、ナイフを取り上げて芝居の人殺しのまねをした。
296 金田一は結婚したら吉原など行かなくてもいいと言い、しかし啄木は結婚しても吉原には足しげく通うべきであると言う。
296 何の喜びも与えてくれなかった娼婦
296 並木武雄から借りた時計をまだ質屋から
←251 しかし昔ながらの啄木も相変わらず健在だった。友人の並木武雄から時計を借り、質に入れて八円を作り、
297,298 花子。
303 床屋の二階に移るの記
312 節子は義母にどんなことを言われても大理石像のように動かず、一語も発しなかった。
314 早く自分のことをお書きなさい、もったいなくてまだ書けない、書けない 啄木は型にはまった小説に、無駄に時間を使い過ぎていた。
315 翌明治43年、啄木と金田一はめったに会うことがなかった。
323- 【12】
324 しかし次第に人間が作ったもので称賛すべきもの、価値あるものは何一つないと疑うようになった。
339 明治43年、4/12 啄木はついに奮起して
351- 【13】
352 明治42年11月から東京毎日新聞に連載を始めたエッセイだった。『弓町より』→『食ふべき詩』
359 明治41年、1/19. 啄木は母と妻、子供を小樽に残して釧路へ向かった。
368 正直なる日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ。ーーまとまりがあつてはならぬ。
369 『一利己主義者と友人との対話』と題され、「創作」11月号に掲載された。
←尾上柴舟1876-1957 の『短歌滅亡私論』を読んだ後で
382 瀬川深。
384 啄木は相変わらずクロポトキンを読み続けていたものの、身辺に起きた数々の大きな出来事が秋水の事件から啄木の注意を逸らしていたのである。
390 トルストイ。1904
1904 日本がロシアと開戦 日露戦争
→日露戦争を強く非難するトルストイの『汝、悔い改めよ』が英訳されて「ロンドンタイムズ」6/27に。(明治37年)
東京に打電された英訳を幸徳秋水と堺利彦が日本語訳し、37.8月初めに社会主義の週刊新聞「平民新聞」と「東京朝日新聞」に全文掲載。
→7年後、1911年に石川啄木が回想。
391 永井荷風1879-1959.
393 トルストイ論を書いた数ヶ月後の明治44年夏。啄木は杖に頼りながら、弓町の自宅から、森川町の金田一の家を
402 九月三日、父の一禎が三度目の失踪をした。
403 啄木の人生でおそらく最大の衝撃的な事件が、明治44年9/10頃に起きた。
407 光子の誇張ないしはでっち上げ
409 啄木はクロポトキンを読み続けたが、本は啄木に慰めを与えなかった。啄木にとって「革命」は、すでに政治の話であるよりは自分自身に関わることだった。
427 啄木はクロポトキンの作品を読んだが、こうした本が病院での退屈な時間を忘れさせることができたかどうか、
432 岡田健蔵は。聖ヒエロニムスのように、図書館員の守護聖人として尊敬されるべき。最大の宝物。(私立函館図書館)
ーー435註
463 啄木は明治41年(1908)に1576首の短歌を詠んでいて、他の年より遥かに多い。池田功『石川啄木入門』36ページは、これを「歌が爆発した」と書いている。←191
467 啄木が『鳥影』を書く直前、源氏を読みながら寝た。明治41年9月17日(1908)←217
471 啄木は与謝野夫妻を二人で一人と見なしていたようである。
497 光子は必ずしも常に信用できるわけではないが、