木曜日
夜に、御厨貴の放送大学の講義を聞きながらうろうろしていた。御厨は高橋洋一さんに顔が似ているという印象、を私はおぼろげに抱いていた。
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星亨、田口卯吉、幸田露伴
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「穎才新誌」に対する紅葉と露伴の態度の違いは、のちに作家となってからの、二人の、作家という職業に対する思いの違いに反映している。
紅葉は最後まで自分が作家であることに、つまり物語作者であることに、誇りを持っていた。
露伴が一生かけて目指していたものは別の物だった。別の大きな物だった。その「別の大きな物」を表現するために、時に露伴は、小説という形式を使った。
坪内「英語と漢文の間で」59
紅葉は武士の子である江見水蔭に向って、「や、君と斯うして交際するのも、明治の御代の難有さだ」とも言ったという。
紅葉のこの心配は、けっして杞憂ではなく、紅葉ととても親しかった先輩文人、依田学海(もと佐倉藩藩士)は、
その事実を友人から聞かされた明治二十四年三月二日の日記に、
「初めてしりぬ、尾崎徳太郎が彫刻師黒斎の子なるを。
黒斎は彫刻をよくすれども、幇簡の如き生活を為して、常に赤き外套をうちはふりておかしき事をいふものなり。
図らざりき、かゝるものゝ子紅葉の如き才子あらむとは」と書き記している。
坪内「二つの誕生日を持つ男たち」38
すでにというのは、逍遙は明治二十年十二月一日、外骨の仲介によって、当時の文学世界の大物、依田学海に初めて会うことになるからだ。
この時外骨は二十一歳。逍遙はその八歳年上、そして学海は三十四歳年上である。
坪内「自由民権運動の時代に」69