成猫をむかえる2

 

中園孔二

エリザベス・ペイトン 1965 アメリカ合衆国 コネチカット州 ダンベリー

マルレーネ・デュマス アムステルダムの女性画家。 ウィキペディア。生年月日: 1953年8月3日 (64歳)。生まれ: 南アフリカ ケープタウン

 

ボネファンテン美術館

 

リュック・タイマンス
美術家。生年月日: 1958年。生まれ: ベルギー モルツェル

 

ジョージ・ストロンボロポロス(George Stroumboulopoulos、本名:ジョージ・マーク・ポール・ストロンボロポロス(George Mark Paul Stroumboulopoulos)、1972年8月16日 - )は、カナダ・オンタリオ州マルトン生まれ、バンクーバー育ちのTV司会者、ラジオパーソナリティである。父親ギリシャ系エジプト人で、母親はウクライナ人である

マイケル・ブーブレ(Michael Buble、1975年9月9日 - )はカナダ・ブリティッシュコロンビア州バーナビー生まれの歌手、俳優。本名はマイケル・スティーヴン・ブーブレ(Michael Steven Buble)。母方の祖父がイタリア出身のため、イタリアの市民権も持っている。妹は女優のクリスタル・ブーブレ

エルンスト・ゴンブリッチ(Sir Ernst Hans Josef Gombrich; 1909年3月30日 - 2001年11月3日)はオーストリアユダヤ人の美術史家。
研究活動の大半を英国で行った。(アーンスト・ゴンブリック、エルンスト・ゴンブリヒとも表記)

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針生 一郎(はりう・いちろう、1925年12月1日 - 2010年5月26日)は、日本の美術評論家、文芸評論家。和光大学名誉教授。

東野 芳明(とうの・よしあき、1930年9月28日 - 2005年11月19日)は、東京都出身の美術評論家。

中原 佑介(なかはら・ゆうすけ、1931年8月22日 - 2011年3月3日[1])は、日本の美術評論家。京都精華大学学長、同大学名誉教授。

クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909年1月16日 - 1994年5月7日)はアメリカ合衆国の美術評論家。リトアニアユダヤ人の子としてニューヨークに生まれる。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク卒業後、シラキューズ大学を卒業。抽象表現主義とその代表的存在であるジャクソン・ポロックを擁護し、後には「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の運動を理論的に主導。『パルチザン・レヴュー』、『ネーション』等の雑誌で批評活動を展開した。ロジャー・フライ、クライヴ・ベルが述べたフォーマリズム批評をさらに推し進める。思想的なバックグラウンドはカント、ヴェルフリンなど。特にカントの影響が強く見られる(『モダニズムの絵画』参照)。ジャクソン・ポロックの絵画についての批評を繰り広げたことが有名(批評家と芸術家のコンビが顕著になった形態のあり方)。その影響は大きくマイケル・フリードロザリンド・クラウス、日本では藤枝晃雄に見られる

→その後、ポスト・ペインタリー・アブストラクションは2つの流れに分かれる。ひとつはエルズワース・ケリーやフランク・ステラに代表される「ハードエッジ」であり、輪郭と形象の関係性を追求した。もうひとつはヘレン・フランケンサーラーやモーリス・ルイスに代表される「カラーフィールド・ペインティング」であり、下塗りをしないカンヴァス上に希釈した絵具を注ぎ、純粋で流動的な色彩を追求した

artscape BLOG 2:アート日報: 藤川哲アーカイブ

ハンク ・ グリーンバーグ

モーリス・R・グリーンバーグ

ヴァージニア・ウルフ『ロジャー・フライ伝』(1997), 「趣味が一人の人間によって変えられるとすれば、それはロジャー・フライによって変えられた」――ケネス・クラークはフライの没後にこう書いて称賛したが、彼の考えでは、フライに比肩しうる美術評論家はラスキンだけであった→ヴィクトリア朝時代を代表する知識人のうち、ジョン・ラスキンは日本でもよく知られている。次いでウォルター・ペイターの名が知られているだろうか。ヴァージニア・ウルフと姉ヴァネッサが仲違いをした理由は…

柏倉康夫さん 「ロジャー・フライのマラルメ論Ⅰ」

http://monsieurk.exblog.jp/20449725/


 

ロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1941年 - )アメリカ合衆国ポストモダニズムを代表する美術評論家、理論家。1969年ハーバード大学にて博士号を取得。ハーバード時代の師クレメント・グリーンバーグ、学友のマイケル・フリードから影響を受け、はじめフォーマリズムの批評家として出発するMIT、プリンストン大学ニューヨーク市立大学ハンター校を経て、1992年よりコロンビア大学教授。作品内の物語性よりも画面の「平面性 (flatness)」に重きを置く師・グリーンバーグのフォーマリズム批評に、1960年代以降の美術作品を分析するツールとしては限界を感じたクラウスは、次第にグリーンバーグ批評とは決別。独自の脱構築的な批評へと向かう。1976年には現在も刊行の続く美術批評理論誌『オクトーバー』を創刊する。著書である『視覚的無意識』の中では、画家ではサルバドール・ダリ、詩人ではジョルジュ・バタイユ、史学者としてはルロワ・グーラン、文学者としてアンドレ・ブルトン、美術家ではハンス・ベルメール等を取り上げて独自の見解と論述で其々の関係性を述べている。

 

重信 メイ(しげのぶ メイ、1973年3月1日 - )は、レバノン系及びパレスチナ系日本人のジャーナリスト、元ニュースキャスター、一時期女優業も務めた。レバノンベイルート出生。専門分野は、パレスチナ問題を中心に中東問題、中東メディア、アラブ世界、イスラム文化イラク、クルド問題など。日本語、英語、アラビア語を操るトライリンガルでもある。本名は、奥平(おくひら)メイ。2016年6月現在未婚

浅田孝 1921年3月19日 - 1990年12月4日
日本の都市計画家・建築家。香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。甥は浅田彰

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苅谷剛彦
日本の教育社会学者、 オックスフォード大学社会学科および現代日本研究所教授、セント・アントニーズ・カレッジ・フェロー。東京都出身。都立墨田川高校東京大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科修士課程修了。ノースウェスタン大学大学院博士課程修了。Ph.D社会学)。放送教育開発センター研究開発部助教授などを経て、東京大学教育学研究科教授。2008年よりオックスフォード大学教授を兼任、2009年東大を辞職。フランスの社会学ピエール・ブルデューの社会階層論などを援用しつつ、ゆとり教育学力低下の問題を生徒の家庭の社会的地位と関連させて論考した。資格的には平等な受験システムが、社会の上方流動性へのインセンティヴを生み出すが、そのために参加しなければならない受験競争には、多くの資金が必要とされるため、実質的に経済格差が学力格差を産出し、これを受験システムが再生産(ルプロダクシオン)する、という主張を展開している


プレイヤード派
16世紀フランスの詩人たちのグループ。イタリア・ルネサンスの影響を受け、古代ギリシア古代ローマの文芸を規範とした創作を主張した
日本では、プレイヤッド派、七星詩派などとも表記される。Pleiade(s) は、本来アトラースの七人の娘を指す。ここから転じて、七詩聖のことをプレイヤードと称する。古代ギリシャのプレイヤード、中世トゥールーズのプレイヤード
なども存在するが、日本で「プレイヤード(派)」と言った場合、ルネサンス期のそれを
指すのが一般的である。1553年に始動したが、実質的な出発点は1549年に公刊された宣言書『フランス語の擁護と顕揚』(邦訳、1943年)と見なされている。ジョアシャン・デュ・ベレーが執筆したものであり、当時(公用語であるラテン語に対し)俗語とされていたフランス語文学の中に、古典文芸の格調高さ、優美さを取り入れることを主張した。以下標準的なメンバーを掲げる。

ピエール・ド・ロンサール
ジョアシャン・デュ・ベレー
ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ
ポンチュス・ド・チヤール
ジャン・バスチエ・ド・ラ・ペリューズ- 1554年に没。
レミ・ベロー- ラ・ペリューズの後任と目される。
エチエンヌ・ジョデル
ギヨーム・デ・ゾーテル- ジョデルの後任。
ジャック・ペルチエ・デュ・マン
ジャン・ドラ- ペルチエ・デュ・マンの後任。ロンサールやバイフらの師に当たる

 

深見弾 1936年6月15日 - 1992年7月28日
ロシア・東欧SFの翻訳家、研究家。ストルガツキー兄弟(ロシア)やスタニスワフ・レム
ポーランド)など、多くの作品を日本語に翻訳した。また逆に日本の作品をロシア・東欧
に紹介することにも取り組んだ(矢野徹によるとレーニン図書館へ資料を送るため毎月1万円
以上を使っていた)。1959年~1977年ロシア・ソ連専門書店・出版社ナウカ株式会社勤務。仕入部長を経て、1979年よりフリー[8]。1968年よりロシア文学や東欧文学の翻訳に携わる。SF同人誌「宇宙塵」には初期から関わり矢野徹らとも親交が深かった。

大竹博吉 1890年3月8日 - 1958年1月22日
ウラジヴォストーク東洋学院(現・極東連邦大学)卒業。1923年、『東方通信』モスクワ特派員となる。1931年、ソ連図書輸入商社ナウカ社を設立。日ソ親善運動をおこなう。ファシズムの波が強まる中で、スパイ容疑で投獄される。ナウカ社は1936年に解散を余儀なくされた。戦後は民主主義科学者協会に属し、ソビエト研究者協会幹事、日ソ協会理事などともに、新聞及出版用紙割当委員会の委員を務めた。イヴァン・ミチューリンを日本に紹介し、ヤロビ農法の普及や1954年の日本ミチューリン会発足に重要な役割を果たした。広尾猛、瓜生信夫の別名をもつ

新文化通信社
1930年(昭和5年)に丸島誠によって『出版通信』として創刊された。1940年(昭和15年)に、日本出版文化協会(文協)などができ、出版に対しての政府の統制が始まっているが、
その関連で『出版通信』も、帆刈芳之助の『出版研究所報』、『出版文化通信』と企業合同を経て『出版共同新聞』と改題し1943年(昭和18年)まで発行された。1950年(昭和25年)12月、丸島誠により新文化通信社として復活、週刊紙『新文化』を創刊した。
小林一博 - 元『新文化』編集長
長岡義幸 - 元『新文化』記者
https://www.shinbunka.co.jp/fukkoku/fukkoku01.htm

桑名淳二 1943-
編集者、出版評論家。埼玉県生まれ。1968年横浜国立大学教育学部卒業、学習研究社に入社。
1984年『3年の科学』編集長、87年『4年の学習』編集長。90年営業部門に移り、情報宣伝室長。96年販売企画室長、99年サポートセンターでデータベース担当。2002年退社

金平聖之助 1928-
京都府生まれ。早稲田大学教育学部英語教育科卒。小学館に入り、『めばえ』『よいこ』『幼稚園』編集長、国際室長、1988年大妻女子大学短期大学部教授。日本出版学会常任理事。アメリカ出版研究会主宰

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モトローラ
かつて存在したアメリカ合衆国の電子・通信機器メーカー。2011年1月4日をもって、二つの独立した公開会社であるモトローラ・モビリティ
及びモトローラ・ソリューションズに分割された。本社所在地はシカゴ近郊のイリノイ州シャンバーグ1928年、ガルビン兄弟がガルビン・マニュファクチャリング・コーポレーションを設立。1930年、世界初のカーラジオ Motorola 5T71型 を開発。"Motorola"とは、"Motor"(モーター、自動車)の"ola"(オーラ、音)という意味。1974年、テレビ・ラジオ事業を松下電器産業(現パナソニック)に売却
http://gigazine.net/news/20150723-goodbye-moto/

 

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イリジウムコミュニケーションズ
イリジウムとはモトローラ社のCEOであったロバート・ガルビンが計画した高度780kmに66個の衛星を投入する衛星電話、衛星インターネット接続サービスの名称。当初は77個のコンステレーションで計画されたため、原子番号77のイリジウムにちなんで名づけられた。モトローラが約18%、日本イリジウムが約11%間接出資する「IRIDIUM LLC」社が事業を担い、1997年12月からイリジウム通信衛星が長征2C(太原衛星発射センター)とデルタ II(ヴァンデンバーグ空軍基地)により順次打ち上げられ、1998年11月にサービスを開始

ゼンド・テクノロジーズ
アメリカ合衆国World Wide Web基盤ソフトウェア企業。本社はカリフォルニア州クパチーノにある。技術センターはイスラエルのテルアビブ近郊にあり、フランスおよびドイツに支社がある。PHPベースのWebアプリケーションの開発・配布・管理に関わる各種製品を開発しているゼンド・テクノロジーズの創業者はアンディ・ガトマンズとゼーブ・スラスキーで、彼らはイスラエル工科大学を卒業後、ラスマス・ラードフが生み出したPHPを仲間と共に拡張したことでよく知られている。1997年、ゼーブとアンディはラスマス・ラードフのPHP-FIのパーサを書きかえ、その成果をPHP 3としてリリース。1998年、パーサを完全に再設計し、これを Zend Engine と名づけた。PHP 4はこのZend Engineを使った最初のバージョンで、大きな成功を収めた

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アリエル・シャロン 1928年2月26日 - 2014年1月11日
イスラエルの政治家、軍人。愛称は入植者の父、ブルドーザー。子にオムリー、ギラード。
イスラエルの首相(第15代)。カディーマ党首(初代)、リクード党首(第4代)を歴任。イスラエル史上、最もパレスチナに強硬姿勢を貫くタカ派政治家と言われているが、イスラエルの歴史上初めてパレスチナ国家の独立を明言した首相でもある。パレスチナ自治政府が不法な武器を徴収してテロを放棄させるまでは、パレスチナ首脳部との和平交渉には応じないというのが方針であった
辻雅之 https://allabout.co.jp/gm/gc/293575/

ゼエヴ・ジャボチンスキー 1880-1940
シオニストの指導者で修正主義シオニズムのエツェルを率いた。また、オデッサで自衛組織を創設、指導者となった。作家、詩人、翻訳家でもあった。ロシア帝国領のオデッサ(現・ウクライナ領)で生まれる

モシェ・カツァブ 1945-
イスラエルの政治家。同国大統領(第8代)。イランのヤズドで生まれたユダヤ

エフード・オルメルト 1945-
イスラエルの政治家。首相(第16代)、国会議員(9期)。財務相(第25・27代)、カディマ党首(第2代)を歴任

ベンヤミン・ネタニヤフ 1949-
イスラエルの軍人、政治家。現在、同国首相(13・17代)。外相(17代)、財務相(18・20・24代)を歴任。2005年12月より右派政党リクードの党首に再登板。イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者。尊敬する政治家は、同党の創設者・メナヘム・ベギン元首相と英国のマーガレット・サッチャー元首相である。また、急進的な新自由主義者でもある。イスラエル国内や海外でのユダヤ人たちの間などでは「ビビ」の愛称で呼ばれている

ヤアコブ・カッツ 1951-
イスラエルの政治家、軍人、入植者。国家統一党党首。エルサレムで生まれる。1970年にイスラエル国防軍に入隊する。1973年に勃発した第四次中東戦争に従軍、同戦争で南部管区司令官だったアリエル・シャロンの副官を務める。エジプト側に越境した際にエジプト軍のRPG-7の直撃を受け、重傷を負う。数ヶ月間死のふちをさまよい、現在も足にはその後遺症が残る。1978年から入植地拡大運動に身を投じる1987年には右派のテレビ局、アルーツ・シェバの立ち上げに関与する→ネオ・シニシズムが主張された。カッツが政界との接点を持つことになるのは1990年からで、同年にかつての上官だった
シャロンがシャミール政権下で住宅建設相に就任したことに伴い、シャロンに請われ補佐官に就任する。当時は冷戦構造が下火になったことに伴い、ロシア・東欧からの帰還者が殺到していた。そのため、35000戸余の新規入植地建設計画(いわゆるシャロン計画)の立案に携わる

イツハク・シャミル 1915-2012
イスラエルの政治家。同国首相(第8代:1983年-1984年、第10代:1986年-1992年)を務めた。ロシア帝国ルジャナ(その後ポーランド領、ソビエト連邦領を経て、現在はベラルーシ領)で生まれ、1935年にパレスチナに移り住む。エルサレムユダヤ大学で教育を受けた。
旧姓はヤゼルニツキだったが、その後シャミルに改名

アヴラハム・シュテルン 1907-1942
シオニスト革命家で詩人。また、後のレヒもしくは、シュテルン・ギャングと呼ばれるシオニスト機関の創設者であり、その指導者。 弟のダヴィド・シュテルンは実業家を経てリクードに入党し、クネセトの議員となった。ロシア帝国ポーランドのスヴァウキで生まれた。第一次世界大戦が勃発すると、彼の母はドイツ軍から逃れるため彼と弟ダヴィドを連れてロシアに避難した
内藤陽介のブログ http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-51.html


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PROJECT SYNDICATE 1995-
国際的なNPOであり、各国の新聞をつなぐ組織である。専門家や活動家、ノーベル賞受賞者
政治家、経済学者、政治思想家、ビジネスから学者にいたる各界のリーダーによる論考や分析を会員の新聞および雑誌社に配信し、会員間のネットワークを組織している。主に先進国の会員紙誌からの出資によって運営されるが、そのほかジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ財団やデンマークで設立されたPolitiken、Die Zeit および Gerd Bucerius Foundationからの出資も受け入れている。それらの出資をもとに、
報道各社の資金がまだ充分でない発展途上国へは論考および分析を無償で提供している

→主な寄稿者
ジョセフ・E・スティグリッツ
ジョセフ・ナイ
ジェフリー・サックス
サイモン・ジョンソン
ジョスカ・フィッシャー
ファン・ガン
マイケル・スペンス
ハメド・エラリアン
ナオミ・ウルフ
ミハイル・ゴルバチョフ
ジミー・カーター
潘基文
ケネス・ロゴフ
ロバート・シラー
ヌリエル・ルビーニ
マーティン・フェルドスタイン
ジョージ・ソロス
イアン・ブルマ
クリスティーヌ・ラガルド
ジャン=クロード・トリシェ
ラグラム・ラジャン
トニー・ブレア
安倍晋三
小池百合子

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テオ・ファン・ゴッホ 1957-2004
オランダの映画監督、テレビプロデューサー、著述家、俳優。画家フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオドルス(テオ)の曾孫テオドルスの息子フィンセント・ウィレムの二男ヨハンの子として生まれる。法学校中退後、劇場の支配人となるが映画製作に情熱を抱いており、1981年に『Luger』で映画監督としてデビュー。テオは論争を巻き起こす文章を書く名人であったと言える。中傷するようなトーン、個人的な敵意があるかのような文調により、彼は他のライターや著名人によって多くの訴訟を起こされ、寄稿していた雑誌をクビになり、以後は自身のウェブサイト「De Gezonde Roker (The Healthy Smoker)』で活動することを余儀なくされた。テオは人生に対して強い虚無的な見方をしていた。大酒を飲み、オランダ人らしく
コカインを使用していることをオープンにし、恋愛に関して冷笑的な見方をしていた。また自分の生活を楽しんでいるかのように見えたが、彼自身はいつ死んでもかまわないというようなことを語っていたという。テオの最後の著書『Allah weet het beter (Allah Knows Best)』はイスラーム社会を扱ったものであり、冷笑的であざけるかのような彼の典型的なスタイルで書かれている。テオは特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、イスラーム批判でよく知られていた。また、彼はソマリア出身反イスラーム主義者の政治家アヤーン・ヒルシ・アリを支援していた

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ 1890年1月31日 - 1978年1月28日
オランダのエンジニア。画家フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオの長男。ゴッホ美術館の設立に尽力し、ゴッホの手紙の編纂・出版も行った。1907年、デルフト工科大学に入学して機械工学を学び、1914年、卒業した。その後、フランス、アメリカ合衆国、日本などでエンジニアとして働いた。1920年初頭、オランダに戻り、学生時代からの友人Ernest Hijmansとともに、オランダで初めての経営コンサルタント会社を設立した

アヤーン・ヒルシ・アリ 1969-
ソマリアモガディシュ生まれのオランダの元下院議員。ケニアサウジアラビアエチオピアで生活した経験を持つ。元イスラム教徒の無神論者。イスラム世界における女性の扱いの低さを訴え、抑圧からの解放を解く。ごく部分的に美点を認めるものの、イスラム教自体やその
開祖ムハンマドにも否定的である。2004年に監督が殺害された映画『サブミッション』の脚本を書いており、彼女も監督と同様に命を奪われる危険にさらされている。2015年の著作では、従来の見解から少し軟化して、イスラム教の改革において必要な要素として
 クルアーンの逐語的解釈の停止
 シャリーアの停止 
 来世を現世より重視する世界観からの決別
 精神的指導者のファトワー宣布の権限廃止
 聖戦思想の破棄
の五項目を挙げている
1992年、伝統で父親に決められた結婚を拒みオランダに渡る。同年、難民申請が認められる
1997年、オランダへの帰化を申請。オランダ国籍を得る。2005年、タイム誌において「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。2007年、アメリカ合衆国グリーンカード取得。2011年、イギリス出身の歴史家ニーアル・ファーガソンと結婚。同年に子供をもうける
「著者はソマリア平塚らいてうである。」

須藤真志

ジョン・ルイス・ギャディス
アメリカ合衆国歴史学者。イェール大学歴史学部教授。専門は、冷戦史、アメリカ外交史、安全保障政策

ニーアル・ファーガソン 1964-
スコットランド出身の歴史学者、ジャーナリスト。ハーヴァード大学教授。専門は、経済史・金融史

鈴木優美
デンマークの光と影」(リベルタ出版、2010)

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晶文社アルヒーフ」1985-1986
http://ameqlist.com/0sa/shobun/alhi.htm
平凡社「20世紀メモリアル」
http://ameqlist.com/0ha/heibon/20seiki.htm
平凡社「コロナ・ブックス」

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宇佐美承(うさみ・しょう) 1924-2003
ノンフィクション作家。妻は新田義美の娘の公子。天津生まれ。東京大学文学部卒。朝日新聞記者、「朝日ジャーナル」副編集長を経て、
記録文学作家になり、1982年、『さよなら日本』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
『池袋モンパルナス』など美術関係の著書もある

風呂本武敏 1935-
英文学者、神戸大学名誉教授。妻も英文学者の風呂本惇子。娘の風呂本佳苗はピアニストで、作家・芦辺拓の妻

櫻井正一郎 1936-
イギリス文学者、イギリス史学者、京都大学名誉教授。 大阪府生まれ。病気休学した高校時代から京都学派の先人たちの本を好んで読み続ける。京大英文学会の紀要に学派の学風についての論文2本を発表。『京都学派 酔故伝』(2017)で吉川幸次郎ら酒人12名の人物論を著しつつ、文学研究にも京都学派があったと提唱

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ピア・クラスゴー 1947-
デンマークの政治家、元介護士1984年の総選挙で国会議員に初当選。ヴェンスタでの政治活動を経て、1995年にデンマーク国民党を創設、2012年にかけて党首を務める。「文明人はヨーロッパ人だけであり、他は全て野蛮人」などの発言を繰り返し、右翼的な政治家として広く知られるようになる。

ヘンリー・キッシンジャー

ベトナム戦争の失敗が不可逆的になったところで、キッシンジャーら多極主義者は「現実主義者」として登場し「ベトナム戦争の失敗を挽回するには、アメリカは、ベトナムに影響力を持つ中国と仲直りせざるを得ない」という理屈を通して、ニクソンが訪中して中国と接近する政策を展開し、冷戦に風穴を開けた(20171115)

歴史を繰り返させる人々

田中宇の言う(隠れ)多極主義者に関する考察 my.test.done

 

レ・ドゥク・ト

 

田久保忠衛 1933-
2014年10月、櫻井よしこと共同で「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成。2015年、三好達の後任として日本会議会長に就任した。国際フォーラム理事。財団法人ディフェンスリサーチセンター・日本財団理事。国家基本問題研究所の筆頭副理事長。「新しい歴史教科書をつくる会」、「体罰の会」顧問。映画「南京の真実」の賛同者も務める

内藤陽介 1967-
郵便学者、ノンフィクション作家

 

 

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